井出 薫
任意の自然数nに対して命題G(n)が成立することを証明するのに良く使われる手法が数学的帰納法だ。n=0の時にG(0)が成り立つことを証明し、次に、nのときにG(n)が成り立つことを仮定するとG(n+1)が成立することを証明する。これにより任意のn、つまり全てのnに対してG(n)が成立することが証明される。G(0)が成り立つから0+1=1からG(1)が成り立つ。G(1)が成り立つから1+1=2からG(2)が成り立つ。こうして、G(3)、G(4)、G(5)が次々と証明される。そして、この過程には限りはないから、全ての自然数nに対してG(n)が成立することが分かる。これが数学的帰納法だ。 だが数学的帰納法にはどこか不自然なところがある。G(n)が成立するとG(n+1)が成立することは証明されている。しかし自然数は無限に存在する。無限の自然数全てでG(n)が成立することが本当に証明されたと言えるのだろうか。上の証明に戻ってみよう。n=0で成立するから1でも成立する、1でも成立するから2でも成立する、こういう手続きの繰り返しで全てのnでG(n)が成立することが分かるというのが数学的帰納法だった。だが「+1」という手続きを無限に繰り返すことは有限な人間にはできない。どんな高速のコンピュータを使っても有限回数の計算しかできない。だから無限個存在する自然数全てを検算することはできない。それでも全てのnに対してG(n)が成立すると言うことができるのだろうか。 もしXなる自然数でG(X)が成立しないとするとG(X−1)も成立しないことになる。同様にG(X−2)も成立しない。やがて、この過程には終わりが来てG(0)へと帰着する。その結果G(0)が成立しないことになるが、G(0)が成立することは証明されているのだから矛盾する。よって、G(X)が成立しないような自然数Xは存在しない。これで疑問に回答することができたと言えるだろうか。言えない。自然数は無限に続くから、Xとして無限に大きな数を考えることができる。従って上の引き算の過程も無限に続くようにすることができる。だとすると先ほどと同じ疑問が生じる。無限に続く計算をすることは人間にはできない。コンピュータを使ってもできない。要するに、0から大きい数へと進んでも、巨大な数Xから小さな数へと進んでも、無限の過程を遂行することができない以上、この証明(数学的帰納法)は現実的に遂行することができない形式的なものに留まる。事実、矛盾していないがω矛盾している数学体系を考えることが可能で、その場合は、G(0)、G(1)、G(2)・・・・から「∀nG(n)」(「∀」は「全て」あるいは「任意」を意味する)を導くことはできない。つまり、ここで論じてきたことはけっして無意味ではなく、無限を扱うときには、有限の場合に成立する論理を安易に流用することはできないことを示している。 通常は、自然数論の体系として数学的帰納法が成立する体系が(暗黙のうちに)採用されているため、数学的帰納法により「(∀n)G(n)」が証明できる。つまり安心して数学的帰納法を使うことができる訳だ。だがその基盤となる数学体系は、私たちの素朴な直観を超えたものであり、数学特有の論理が必要となる。数学とは、誰もが直観的にその正しさを理解できる(自明の理としての)公理並びに演繹規則を出発点として、あらゆる定理を導く体系だという印象を持たれることがあるが、実際は土台となる公理の座を占める自明の理など存在しない。そのことは20世紀初頭の数学に関する論争が明らかにしている。数学は私たちの常識よりも遥かに複雑で奥が深く、私たちの直観を超越している。 パスカルは、人間精神を幾何学的精神と繊細な精神とに分けて、後者はけっして数学に還元できないと考えた。だが数学の奥深さは、パスカルが繊細な精神と語ったものをも包含するように思われる。コンピュータや機械にはできず人間だけに出来ることがあるかという問いには多くの者が肯定的に答える。人間は(知的には)数学や情報科学、(身体的には)生物科学に還元できるような単純な存在ではなく、それを超えた何かであると多くの者は信じている。だがこの短い論考では到底語り尽くせない数学の奥深さに思いを寄せるとき、人間が数学を超えているとは考えられない。 学問だけではなく芸術の分野でも、コンピュータの方が人間よりも優れた作品を残すような時代が来るのではないだろうか。それは正に数学の全面的な勝利を意味する。ぞっとしない想像だが、もしかすると人が数学を生み出しているのではなく、数学が人をして、その本質をこの世に顕在化するように強いているのかもしれない。 了
|