☆ 根拠とは何か ☆

井出 薫

 「何故人を殺してはいけないのか」と大真面目に議論されることがある。一時期は本にもなった。しかし哲学的懐疑主義をとる限り殺人を回避しなくてはならない根拠はない。「自分は殺されたくないから人を殺すことも良くない」という議論が良くなされるが、根拠にはならない。自分にとって好ましくないことが、他人にも好ましくない、社会にとって好ましくないとは言えないからだ。内視鏡検査が嫌いだからと言って他人にそれを勧めるべきではないということにはならない。殺人と内視鏡検査では全く道徳的な意味合いが違うとはいえ、上のような論理では殺人を否定する根拠にはならない。他にどのような論議を展開しても、絶対的な根拠を求める哲学的懐疑主義を納得させることはできない。だとしたら、「人を殺してはならない」という道徳律は無根拠だということになるのだろうか。

 多くの者は人を殺すことに強い嫌悪感を抱く。殺人者に厳しい目を向ける。殺人が悪いことは当り前だと信じている。母親が「何故人を殺していけないのか」という題名の本を見て「馬鹿みたいだ」と言ったことがある。一々議論しなくても殺人が悪いことは自明の理だというのが母親の考えだ。母親だけではなくほとんどの者は同じように考える。たとえばカントは別に根拠を説明できなくとも殺人が悪であることは知的存在者であれば誰でも分かると主張した。数学や物理学のような明快な論理により「人を殺していけない」という道徳律が第一原理から演繹できる訳ではないが、それでも「人を殺していけない」は正しい道徳律として認められている。

 これは「無根拠に正しい」ということを意味するのだろうか、あるいは道徳は「根拠がない」ということを意味するのだろうか。マックス・ウェーバーは国家をアンシュタルトと評価した。自分の意思で帰化した者などを除くと大多数の日本人は自分の意思で日本人となったのではなく、生まれたときから日本人として育ってきた。日本人は日本の法や権力を、その正当性を吟味することなく暗黙のうちに容認している。そしてこれは日本人に限ったことではなく世界中の人々に当て嵌まる。この事実を捉え、哲学的懐疑主義は法にも権力機構にも根拠はないと主張する。しかし本当にそうだろうか。ここで問題となるのは「根拠」とは何かということだ。

 大多数の者は余程の理由がない限りは人を殺さない。殺人は悪いことだと信じている。殺人者に冷たい目を向けるし、自分が殺人を犯せば人々から糾弾され憎悪されることを理解している。こういう事実こそが「人を殺してはいけない」という道徳の根拠になる。「根拠」とは数学の公理や演繹規則を意味するのではない。何か自明の基礎原理(公理)があり、そこから論理的に導出される命題があるときに、基礎原理が「根拠」だという考えがあるが、正しいとは言えない。公理がそこから演繹される諸命題の根拠なのではない。諸命題の集合こそが、公理や演繹規則の根拠だと言うこともできる。寧ろ数学の信頼性は様々な命題(定理)の正しさに基づいている。それゆえ、数学においても「根拠」とは必ずしも基礎的な原理を意味するものではない。

 現実の世界では「根拠」とは現実そのもの以外には存在しない。人を殺してはいけないと大多数の者が信じているという事実が「人を殺していけない」ということの根拠となる。「これだけでは根拠として不十分だ」、「循環論法だ」と言うのならば、「根拠」なるものはどこにも存在しないと言わなくてはならない。万有引力の法則が正しいから、月が地球の周りをまわり、地球が太陽の周りをまわり、リンゴが落下するのではない。実際は逆で、月や地球やリンゴの落下という事実が万有引力の法則を根拠付ける。これは単なる認識論的な事実ではない。存在論的にも、実在するのは、月や地球やリンゴであり、物理法則などではない。ただ人が自然を認識するための道具として採用した「記号の組み合わせ」が物理法則になるだけだ。存在論的にも物理法則は二次的な位置に留まる。究極の物理理論が存在して、そこから森羅万象が導きだせるという議論がある。しかしそれは明白に間違っている。ヘーゲル哲学は観念論の極致で(科学主義としての)自然主義とは対極に位置するようにみえるが、実はそうではない。絶対精神や絶対理念の代わりに自然や究極の物理法則を置くことにより自然主義が導かれる。自然主義はヘーゲル哲学の亜種に過ぎない。

 要するに「根拠」とはこの現実世界の日々の出来事の中にしか存在しない。いや「出来事の中」ではなく出来事そのものが「根拠」となる。

 「根拠」は、超越的な存在ではなく、目の前の出来事の集合と、それとの人の関わりを通じて発見され、人々のコミュニケーションを通じて維持、再発見される。「根拠」とはそれ以外にはない。最初の問い「人を殺してはいけない」理由は、共同体の成員たちの日々の行動が直接的に示している。勿論、それゆえ人々の行動様式が変わると「根拠」も変わることになる。そこに自然科学と社会科学の違いが現れる。自然は普遍的な性格を有し、変わることのない普遍的な自然法則によりその運動や存在様式が表現される。そこからヘーゲル哲学的な自然主義が生じ、「根拠」の超越論的な解釈が生まれる。そして、自然から社会へと無批判に移行することで、「根拠」は現実から遠ざかることになる。しかし、それは錯覚に過ぎない。自然においても「根拠」は目の前の現実であり天上界にある何かではない。況や社会においては尚更根拠は現実の中にしかない。社会科学が探究する根拠は不確実で、移ろい易いという点で自然科学とは大きな違いがあるが、それは「根拠」の不在を意味しない。

 「根拠」とは目の前の現実であることを理解すれば、「人を殺してはいけない」という道徳律は「根拠」がないどころか、最も明確な「根拠」を持つことが分かる。そして、逆に、このことこそが「根拠」の意味を明らかにする。


(H22/9/19記)


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