☆ 社会科学の方法 ☆

井出 薫

 マンキューの「経済学」によると、経済学者は物理学者や生物学者と同じように、研究対象から収集したデータを基にして数学的なモデルを作り、現象の説明や予測を行い、現実と対照することで必要に応じてモデルを修正し、より良い理論を構築していく。物理学が客観的で普遍的な性格を持つように経済学も客観的な学の構築を目指す。マンキューは経済学について議論をしているが、経済学以外の社会科学でも同じような考えがある。社会科学と自然科学は研究対象に大きな違いがあるが、その本質は同じで客観的で普遍的な理論を作り出すことが目的であり、それは研究の進歩により可能となると言われる。

 しかし自然科学と社会科学は本当に同じ類の学問なのだろうか。両者の本質的同一性を信じる者たちは、経済学など社会科学が自然科学に比べて予測能力、説明能力が劣るのは、対象が複雑で、自然科学と比べて新しい学問だからだと主張する。しかしそのいずれの説明も疑わしい。生物の細胞内や細胞間の相互作用は人間社会より遥かに複雑だが、生物学の説明能力や予測の精確さは経済学の比ではない。宇宙全体を扱う物理学もその深さという面では経済学や社会学などより遥かに難解で複雑だが、優れた予測能力と説明能力を有している。社会科学は新しい学問だと言うが、計算理論、情報理論、通信理論などの歴史は1世紀に満たずアダム・スミスから始めても悠に2世紀以上の歴史を誇る経済学よりも遥かに新しく、しかもその複雑さは人間社会に劣るところはないが、経済学よりも遥かに信頼が置ける体系を構築している。さらにDNAを核とする現代生物学の歴史は僅か半世紀に過ぎず、新しいから未完成なのだとする説明は成り立たない。

 社会科学は自然科学と比較して、説明能力と予測能力で遥かに劣る。それは歴史の古さや対象の複雑さで説明できることではなく、二つの学問領域の決定的な差異に基づくものと考えないと説明はできない。自然科学の研究でも問題設定、何を対象として何を目的とするかという価値判断は存在する。だが対象と目的が明確になれば、後は客観的な研究が可能となる。実験や観測データの分析が先入観で歪められることは珍しくはないが、追試や研究者たちの議論などで誤りを系統的に排除し普遍妥当なモデルを選択することができる。マックス・ウェーバーが科学の要件とした価値自由の原則が自然科学では一般的に満たされる。しかし社会科学では価値判断は研究の対象と目的を決定する段階で終わりになることはない。研究の過程並びに理論の展開の段階でも常に価値判断が混入してくる。アダム・スミスは経済学を国民の富の増進を目的とする学問だと定義した。これは経済学を物理学や生物学と同種の客観的、普遍的な学問だとする立場からすると、経済理論と言うよりも経済政策論に近いということになる。しかしそもそも政策論から独立した純粋な経済学と経済政策を峻別することはできない。大多数の者が株の値上がりを信じれば、買いが殺到して株が値上がりする。隣国が侵略の準備をしていると信じれば対抗して軍備増強に走り軍拡競争になるか戦争が起きる。経済の専門家たちが景気の先行きに楽観的な見通しを発表することで、危機的な状況でも景気が回復することがありえるし、国民の信頼を集める政治学者の著作が戦争を引き起こす(又は回避する)こともありえる。経済学にしろ、国際政治学にしろ、社会科学では、学問的な分析を含めて当事者たちの思惑が研究対象に影響を与えて結果的に理論を肯定又は否定することがある。

 社会科学では、何を、どのように研究するかだけではなく、何をどのようにしたいかが重要な要件となり、それが理論的モデルの枠組みと内容を規定することになる。世界の全て人の富の増進を目的に経済学を研究することもできれば、富は人間を堕落させるから富を放棄する方法を探すために経済学を研究することもできる。世俗的な目的を持たず、専ら物理学のような客観的、普遍的な理論構築を目指して研究することもできる。そして目的が違えば理論の枠組みが異なってくる。マルクス経済学と近代経済学はどちらが正しいかという問題ではなく、特定のイデオロギーを持っている者にとって有益なのはどちらかという問題と繋がる。そして、この価値判断は研究対象のモデルを設定する段階だけではなく、モデル設定後のデータ分析や理論構築の段階にも影響する。たとえばマルクス経済学者と近代経済学者では企業の業績を評価するときに、近代経済学者が企業経営の健全性をみるところでマルクス経済学者は労働搾取の増大を見て取ることもあろう。物理学のような客観的な理論を目指す者もその客観化の意志が分析や体系構築において一つの価値判断として分析や理論構築に影響する。政治学ではより目的が研究方法や体系に影響を及ぼす。世界平和を目的に国際政治学を研究する者と、日本が世界一の大国になる方法を探るために研究する者と、共産主義革命の手掛かりを模索するために研究する者とでは、それぞれデータの分析も構築する理論も異なる。そしてそのいずれかを正しいと決める基準はない。また、こうした信念を一切排除した客観的な理論を構想する者は、明確な信念に基づく方法や理論体系とは異なる方法と体系を構築することになるが、この立場を取ることで客観的な理論が構築できる訳ではない。それは客観性への意志がそれ自身ドグマとなり、世界平和や日本帝国や共産主義と同じような分析や理論構築に介入する価値判断となるからだ。
(注)社会科学では、データ分析やモデル構築に価値判断が欠かせないと言ってもよい。自然科学でも価値判断なしには分析は不可能なのだが、自然という研究対象の客観性に基づき研究者の間で価値判断の共有が可能だが、社会科学では研究対象そのものが客観的存在ではないために、価値判断の共有化が(強制がない限り)不可能となる。

 このように、社会科学においては、自然科学のような客観的・普遍的で強力な説明能力と予測能力を有する理論を構築することはできない。それは価値判断が分析や理論構築に混入してしまうからだが、その理由は二つある。一つは理論を正当化するためには、人々が理論の予測する通りに行動する必要があるが、そのためには人々を説得しなくてはならないというだ。人は物理法則に逆らうことはできないが経済学や政治学の法則を破ることはできる。だから人々を説得して法則に従わせることが不可欠となるが、そこで当然のことながら研究者(主体)と対象となる人々(客体)の双方に価値判断を持ちこむことになる。そしてそれなしには如何なる理論もモデルも意味がない。さらに、もう一つの理由として用語の違いがある。物理学は、物理学特有の言語、主として数学的な用語を使用する。それは人々の社会的な生活のためのものではなく客観的な自然を適切に表現するために開発された用語であり、日常言語とは本質的に異なる。日常言語はそれを使う人々の理解が常に問題となり、人々の理解により初めてその意味が確定するが、物理学の用語は専門家のみが理解できればよいものであり、事実、それを一般人は通常理解していない。そして理解できないにも拘わらずそれを信用し、その応用が社会に巨大な影響を与えている。一方社会科学では理論で高度な数学を使っても最後は必ず人々が容易に理解できる日常言語に翻訳してそれを人々に提示し理解を得ることが欠かせない。この二つの理由から社会科学は予測と説明と制御の科学である自然科学と異なり、予言と説得と警告の科学となる。

 それゆえ、社会科学においては、物理学や生物学を研究するときのように、ただ客観的で普遍的な理論やモデルを構築すればよいということにはならない。経済学や政治学を志す者は、自らの目的を明確にしてモデルを構築することが求められる。その目的は物理学のような理論を作ることというものでもよいのだが、その過程では自分の信念や体験が否応なく混入してくる。またそれらを全て排除しても客観化への意志として過度の数学化、論理化などというやはり一つのイデオロギー的産物を生みだすことになる。従って、社会科学を志す者は、自らの信念を自覚しそれを明確に理念として提示し研究を展開することが望まれる。だからと言って、可能な限り中立的かつ一般的な理論構築への意志も放棄してはならない。さもないと手にしたデータや統計的な処理結果が自分の理念や期待と合致していないからと言って、それを無視したり別のデータを捏造したりすることにもなりかねない。それでは学問ではなく独善的で有害なイデオロギーになってしまう。

 社会科学においては、研究の出発点となる自らの理念を提示し、研究の過程でその理念に基づく価値判断が混入することが避けられないことを自覚したうえで、なおかつ、自然科学的な一般的な理論を(それが完全には不可能であることを認識したうえで)目指すことが必要となる。これが社会科学の最もよい研究方法だと言えよう。


(H22/7/24記)


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