☆ 真理 ☆

井出 薫

 「真(理)」という言葉は良く使われるが、その意味は多様で正体を見抜くことは容易ではない。「命題Aが真である」と言うとき、すぐに思い浮かぶのは、Aが事態と一致しているという状況だ。「命題A|地球は太陽の周りを公転している」は、実際に、地球が太陽の周りを公転しているときに真になる。ここから真理とは、事態と命題が一致していることだという思想が生まれる。

 しかし、「1+1=2」はどのような事態と一致しているのだろうか。1個の石を2つ集めると2個になる。しかし「1+1=2」は普遍的な数学的真理を表現する命題であり、個別の事態と対応しているのではない。しかも「1+1=2」は単独で意味をなす命題ではない。1,2,3・・・という数、「+」と「=」という記号、数と記号を適切に組み合わせるための規則(たとえば、「1+2=+」という記号の並びを排除する規則)などが存在して初めてこの命題は意味を持つ。そして、「+」とか「=」などの演算や関係を示す記号は世界の在りようと直接対応している訳ではない。このように、ごく簡単な数式を調べただけでも、「真(理)」が、単なる「命題と事態の一致」を意味するものではないことが明らかになる。

 さらに、「真の愛」、「真の勇者」などという表現に現れる「真」は、明らかに命題と世界の事態の対応を意味しない。プラトンのイデア界を想定するのであれば、イデア界の愛や勇者と、現実界の愛や勇者との一致を「真」という言葉が表現していると論じることはできるが、イデア界がどこにどのように存在しているのか誰も知る者はなく、寧ろ、「真の愛」とか「真の勇者」という表現が、イデアという理念を生み出していると考える方が理に適っている。たとえイデア界が実在するにしても、以前の事例では、思考の対象あるいは道具である命題と現実世界との一致が問題となっていたのに対して、ここでは思考の対象あるいは道具と(現実を超越した)イデア界との一致が問題となっているという点で大きな違いがある。

 「真」という表現には多様な使用方法があり、それゆえ、その意味もまた多様であることを指摘することで、この問題を回避できると思えるかもしれない。『「命題A|机の上に猫がいる」は真』の「真」は命題に関する表現であり、一方、「真の愛」の「真」は「愛」という概念に関する表現であり、両者は同じ「真」という言葉が使用されているが、その意味は違う。さらに同じ命題に関する「真」の中でも、『「命題A|机の上に猫がいる」は真』の「真」と、『「命題B|1+1=2」は真』の「真」とではその意味するところが違う。このように「真」という言葉はただ一つの普遍的な意味を持つのではなく、それが使われる文脈でその意味が決まる。言い換えると、最初の例の「真」は、現実の事態との一致を意味し、二つ目の「真」は数学的整合性を表現し、最後の「真」は理念を表現する。

 しかし、残念ながら、これで問題が解決されたとは言えない。「真」は「偽」と対をなして初めて意味をなす。それゆえ、どのような文脈で「真」が使用されようとも、「真」と「偽」を区別する基準がなければ、「真」の意味は定まらない。ところが、上の3つの事例のいずれにおいても、真と偽を区別する基準は明らかではない。「猫が机の上に居るかどうかを調べればよいではないか」と言われるだろうが、机の上にいた猫がいなくなったらどう考えればよいのか。時刻を指定して命題を限定すればよいと反論されるだろうが、時刻の一意性はどのようにすれば担保できるのか。ほんの一瞬机の上にいただけでも猫がいたと言えるのか、それとも一定の時間を超えて机の上にいたときに初めて机の上にいたと言えるのだろうか。それは定義の問題だと言うのであれば、その定義の正当性はどうやって保証されるのだろうか。こうして「机の上に猫がいる」という極めて単純な事例でも、真と偽の境界を定めることは容易ではない。さらに「真の愛」などでは真と偽の区別は不可能になる。「1+1=2」のような数学的命題では真偽は明確だと思えるが、ゲーデルの不完全性定理やタルスキの真理概念が明らかにしたように、証明可能性と真との間に差異が存在していることから、数学的な真偽の概念ですら私たちが信じるほど明確なものではない。しかも、そもそも数学に真と偽という対概念が導入されたのは数学の本質から来る必然と言うよりも、「真の愛」や『「机の上に猫がいる」は真実だ』という日常的な表現が転用され、数学に真偽をいう対概念が導入されたと考える方が正しい。だとすると、日常的表現における真偽の区別の曖昧さは、証明可能という明確な数学的概念と真を同一化することが出来なかった以上、そのまま数学にも反映されていると言ってよい。

 この厄介な問題を回避するために、一部の哲学者は「真」という表現は不要だと主張した。彼(女)らの考えによれば、「命題pは真」は「pである」を、「命題pは偽」は「pではない」を意味しているに過ぎないことになる。だが、これでは、真と偽という問題が、「である」と「ではない」という問題に差し替えられたに過ぎない。つまり問題は解決していない。

 こうなると、ウィトゲンシュタインを援用して、「真」という言葉を使う様々な言語ゲームがあるだけだと答えることで決着を付けたくなる。「使用される状況を捨象して「真」の意味を問うことは無意味だ。そして「真」という言葉、それと対をなす「偽」という言葉、これらの言葉が使用される状況は無数にあるから、一般的な視点で「真」の正体を探究することは無意味だ。」こう考えることで問題は解消できる。そう思いたくなる。

 だが、それは正しくない。真か偽かは、現実生活において、極めて重要な問いだからだ。法的係争、学問、芸術、人間社会のあらゆる分野で真か偽かを巡って論争が生じる。このことは、「真」と「偽」が普遍的な意味を持つということを証明するものではない。だが、「真」と「偽」という概念が広範囲な領域において使用できること、しかも、それぞれの領域において、その判定が極めて重要であることを示している。つまり、真と偽という言葉の使用には、時間と空間を超えた普遍的な性質があることを認めない訳にはいかない。ウィトゲンシュタインは多様な言語ゲームの存在を指摘したが、多様な言語ゲームの中にある質的な差異について注意を向けることはなかった。いや質的な差異などないと考えていたのかもしれない。しかし、多様な言語ゲームの中には、(時間的あるいは空間的に)局所的に成立するだけの言語ゲームと、普遍的な広がりを持つ言語ゲームとが存在すると考えた方がよい。そして、真理に関わる問題とそこで使用される「真」と「偽」という言葉は後者の典型的な事例だと言ってよい。つまり真と偽の問題は、言葉の使用の多様性を指摘するだけでは解決しない。

 こうして、「真(理)」の問題は依然として謎として残されている。私たちは、20世紀以降、主として数理論理学を援用することで「真理」の問題を扱ってきた。それに対してハイデガーのように「論理学そのものを問え」という厳しい批判もあったが、ハイデガーの真理論の曖昧さも手伝い、数理論理学的な真理論を超える視点を築くことができなかった。だがここでその一端を垣間見た「真理」に関する難題は、数理論理学の領域だけでは問題は解決できないことを示している。私たちは数理論理学を超えた更なる探究へと誘われている。


(補足)
 ハイデガーは(存在者ではなく)「存在(在る)」を解明することこそ哲学の第一課題だと主張する。「真理」と「存在」は、ともに、最も抽象的で普遍的に使用される言葉だと言ってよい。「存在」と「真理」に密接な関係がある。「在る」ということは、「真」ということのすぐ傍にある。どのような形態にせよ、「真」と主張できるためには、「(何らかの意味で、何かが)在る」必要がある。逆に、「在る」と主張できるためには、何らかの「真」を私たちは見つけ出す必要がある。このように、「真理」に関する考察は(ハイデガーの意味での)「基礎的存在論」へと繋がっていく。それゆえ真理の問題を探究することは必然的に存在論を探究することになる。実際、本論稿も、物体、数学的記号と演算、抽象的な概念(真の愛)などが、如何なる意味で「在る」のかを巡った論考だったと解釈される。

(H22/7/11記)


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