井出 薫
世界に実在するのは自分だけで、周囲の物は、他人を含めて全て自分の想像物に過ぎないという考えを独我論と言う。独我論は言うまでもなく馬鹿げた考えだが、これを論理的に反駁することは容易ではない。哲学者たちは独我論を反駁するために様々な考察を加えてきた。その中の一つに、私だけではなく他者が実在し、その他者が私のように自己の存在を意識する存在(=自分のことを「私」と呼ぶ存在)であることを如何にして証明するかという課題がある。これは他者問題あるいは他我問題として知られている。この問題が解決されれば独我論は反駁されたことになる。 目の前に居る「貴方」が、街行く男女たち、彼(女)らが私と同じような自己を意識している存在であることをどのようにして私は証明することができるだろうか。フッサールやその後継者たちは、現象学的な手法、つまり「意識の生」を特徴づける原初的な「現象」を出発点にして他我の構成を試みるが納得のいくものではない。どのような試みをとっても、所詮は他者が実在するということを暗黙のうちに前提しているとしか感じられない。他者問題とはある意味で奇術の一種であり、タネがなければ奇術は成立しない。他者が予めどこかに隠されていなければ、他者を導き出すことはできない。実は現象学の困難がそれを示している。 では他者はどこに隠されているのか。「それは私の意識の中だ」と答えれば循環論法になってしまう。確かに私は私以外の他者、家族から見ず知らずの街ゆく男女たちまで無数の他者が存在することを知っている。だが、それが単なる思い込みではなく根拠を持つものであることを示すことが私たちの課題だった。だから、これでは答えにはならない。「意識」を「経験」や「記憶」に置き換えても問題は一歩も前進しない。なぜなら、経験も記憶も意識への現れにおいて(少なくとも私にとっては)初めて意味を持つものであり、意識を根拠付けるものではないからだ。 他者の実在に根拠があるとするならば、根拠は言葉の中に求めるしかない。それも孤立した言葉ではなく、現実生活の中で日々使用している言葉の中から探し出すことが必要になる。なぜなら私にだけ存在する孤立した言葉は、孤立した私の意識に過ぎないからだ。この私を超えた領域で答えを探さない限り循環論法から抜け出すことはできない。では他者の根拠を言葉の中から探し出すことは可能なのだろうか。答えは否定的だ。もしそれが可能であれば、誰かが遥か以前に問題を解決している。なにしろ天才的な哲学者たちがこの問題に挑戦してきたのだから。 実は、「他者」の実在が問題とされるとき、すでに「私」の実在は確実だと暗黙のうちに仮定されている。デカルトに言われるまでもなく「私の実在」は疑いようがない。ウィトゲンシュタインの表現を引用すれば「疑うことに意味がない」。だが、私たちが「私」を定立するとき、「他者」も同時に定立しているのではないだろうか。「私」という一人称だけが存在して、「貴方」、「彼」、「彼女」という二人称、三人称が存在しない言語を想像することができるだろうか。「私、私、私・・・」こういう言葉で私は一体何ができるだろう。誰に呼びかけができるだろうか。誰か他の者の呼びかけに応答することができるだろうか。できない。一人称「私」しか存在しない言語は、驚いたとき「キャー」というたった一つの言葉しかない言語、それゆえおよそ言語とは言い難い単なる「叫び」に過ぎない。「私」という言葉を使い、それに対する何らかの観念を定立したとき、すでに、私たちは「他者」の存在を同時に定立している。 こうして他者問題はそもそも問題ではないこと、錯覚に過ぎないことが明らかになる。だがこれで問題が解けたと言うつもりはない。私たちは「私」と「他者」の間の非対称性を意識して生きている。そこから哲学的な他者問題が繰り返し蘇ってくる。ここで論じたように、それはおそらく擬似問題に過ぎない。だが「擬似問題に過ぎない」と指摘しただけでは問題が解消しないところに哲学の存在意義がある。なぜ擬似問題が真の問題であるかのように繰り返し人々の前に現れるのか、この最も重要な課題が未解決のままに残っている。だが、それを解明することは本稿の範疇を遥かに超える。それゆえ、ここでは問題を指摘するだけに留めておく。 了
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