☆ 連続 ☆

井出 薫

 線は点の集合だと習った。だが長さを持たない点が集まって何故長さを持つ線になるのか不思議だった。線の集合が面になり、面の集合が立体になる、これも理解不能だった。

 線が点に分解されるというのは間違いだ、線は点には分解できない、こう考えれば、問題そのものが存在しないことになる。しかし、二つの線が交わると交わった場所は長さを持たない点になる。このことを考慮すると、やはり線は点の集合だと言わなくてはならない。

 19世紀になって漸くこの問題は解決された。線は点の連続的な集まりだというのがこの難問を解く鍵になる。1、2、3、4、5・・・自然数には最大値は存在しない。最大値が存在するとして、それをMとすると、M+1は自然数になり、M<M+1だから、最大値は存在しない。それゆえ自然数は無限個存在する。しかし19世紀になるまで、カントがそうであったように無限の存在には多くの者が疑念を抱いていた。無限とは、1+1=2、2+1=3、3+1=4、4+1=5・・・・というように計算を限りなく続けていくことができるということを表現しているだけで、無限そのものが存在するわけではないと人々は考えた。ヘーゲルは実無限を構想したが、数学的な無限そのものが存在すると考えることはなかった。それが19世紀に入り、カントールやデデキントのような偉大な数学者たちにより無限の存在が確認された。つまり、無限は単なる人間の限りない操作を形式的に表現したものではなく、人間の操作の「限りなさ」には還元されないことが確認された。

 しかし、自然数に限るとすれば、無限は操作の限りなさという視界から逃れ去ることはできない。1から順番に前の数に1を足すことで幾らでも私たちは大きな自然数を作り出すことができる。有限な時間しか生きることができない人間にとって、無限個の自然数を全て作り出すことはできない。しかし「+1」という操作により全ての自然数の集合を私たちは丸ごと理解することができる。それゆえ自然数しか存在しないとしたら私たちは無限の存在に気付くことはなかっただろう。

 自然数よりも集合の要素の数(無限集合の場合は「濃度」と言う)が多い集合が存在する。それは実数の集合だ。実数も自然数と同じように無限個存在する。しかも自然数よりも濃度が大きい。
(注)この証明は難しくなく初等的な集合論の教科書に書いてあるのでそちらをご覧になって頂きたい。また、どのような濃度よりも大きい濃度の無限集合が存在することも証明できる。興味がある読者は集合論の本を紐解かれるとよい。

 自然数と違い、実数は簡単な手順で作り出すことはできない。実数の閉集合[1,2](1以上2以下の実数の集合)を1から小さい順に並べる方法を考えてみよう。実は上の閉集合を小さい順に並べられることは分かっている。しかし自然数で小さい順に並べたときのように、具体的な手続きを明記することはできない。ここに自然数と実数の決定的な違いがある。そして、無限の存在とは単なる人の操作の「限りなさ」を表現するものではないことが明らかになる。

 実数を連続集合と呼ぶことがある。自然数は1、2、3、4、5・・・と無限個存在するが、それぞれの要素の間に隙間がある。1と2の間には無限個の実数が存在する。つまり1と2の間には無限の跳躍があるのだ。それに対して、実数の集合には隙間がない。だから、これを連続集合と言う。

 ここで点の集合が線になるということが理解される。座標軸の0から1を結ぶ線は0から1の実数の集合だと考えてよい。0から1の実数はびっしりと隙間なく0から1を結ぶ線を埋めていく。こうして点の集合としての線、線の集合としての面、面の集合としての立体が理解される。

 だが、それでも無限には理解しがたいところがある。人の脳細胞は有限だ、人が見通せることも有限だ。コンピュータは如何に高速で大容量でも有限のCPUとメモリしか持つことが出来ず、厳密な意味では万能チューリングマシンと等価ではない。そういうことを考えると、無限は人智を超えた世界にあるか、無限など本当は存在しないと考えたくなる。事実、無限など本当は存在しないと考えたからこそ、カントは人間理性の謎をその一連の著作、「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」で解明することに成功したと信じることができた。無限が存在するのであればカントの議論の多くは不完全であることが証明される。

 実際、カントの議論は不完全だった。そして後継者たちの哲学的考察も不完全だった。今では(カント的な意味で)哲学的考察で理性を解明する試みはほぼ放棄されている。連続という一見ごく当たり前の存在が、伝統的な哲学に終止符を打ったと言ってもよい。

 ここで読者から「連続」が哲学で理解できずとも問題はないではないかと指摘されるだろう。しかし数学とは何かという問題に数学は答えることはできない。それゆえ「連続」も実はそれが何であるかを答えることはできない。ただ「連続」という数学的存在が矛盾なく数学体系に収まっていると言えるだけなのだ。それが合理的で明晰であることは分かっている。それでも「連続」は理解しがたい存在として私たちの前に立ち塞がっている。


(H22/6/5記)


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