☆ 「考える」とはどういうことか(第1回) ☆

井出 薫

 「考える」がどういうことは誰でも知っているが、それを明確に定義することはできない。デカルトは「我考える、故に我在り」と述べ、私たちはその意味を何となく理解できるが、しかし「考える」の意味を明確に述べることはできない。デカルトの箴言も普通は「考える」ではなく、「我思う、故に我在り」と翻訳されているが、「考える」と「思う」の違いも定かではない。デカルトの論旨から言って、またパスカルの「考える葦」という翻訳との整合性から言っても、「思う」ではなく「考える」と訳すのが適当だと考えるが、そのようなことを一々気にする読者は少ない。事実、両者の違いに拘っても得るところはない。「考える」という言葉の意味は斯様に曖昧だ。

 しかし世間一般で、さらには哲学史や論理学史において、「考える」ということが人間の本質の重要な一部をなすと主張されている以上、「「考える」をどう理解すればよいのか、それは趣味の問題に過ぎない」で済ませる訳にもいかない。そこで「考える」が何を意味するかという課題への考察の例をいくつか紹介してみたい。

 「考える」ということに実質的な意味はなく、単に「考える」という言葉が会話で使われているという事実があるに過ぎない。「考える」の意味を知りたければ、「考える」という言葉がどのように使われているのか調べなさい。こういうウィトゲンシュタイン的立場がある。この指摘自体は極めて有益で、人は自分が言葉をどのように使っているか理解しておらず、その結果、議論が噛みあわないことが良くあることに思い当たる。ウィトゲンシュタインに言わせれば、哲学とは全て言葉の使用法の誤解に基づく擬似問題であるということにすらなる。しかし、この立場は「考える」という言葉が曖昧であることと、「考える」ということを考えるには、何を議論しようとしているのか整理する必要があることを示しているだけで、「「考える」とはどういうことか」という問題に答えを与える訳でも、これが擬似問題であることを証明する訳でもない。病気で「思考能力」に障害が生じた場合などは、「考える」ということの実質的な内容が問題となる。またコンピュータと人の違いを考察するときに、「考える」ということの中身を議論しない訳にはいかない。つまり「考える」を便宜的な言葉の使用の問題に還元することはできない。「考える」が意味するところは曖昧ではあるが、それは如何様にでも定義できる便宜的で空疎な記号ではない。考えることには実質がある。

 言葉の問題とも関わりがあるが、「誰が考えるのか」という質問がある。「考えること(思考)」が単独で存在し宙に浮いている訳ではなく、誰かが考える。当り前のことだが、この点に留意しておくことが欠かせない。思考を何かそれだけで存在する実体であるかのようにみなすことでしばしば議論に混乱を引き起こすからだ。だがこの問いに答えることはばかばかしいほど簡単に思える。デカルトに倣うまでもなく「私が考える」に決まっている。「考える」という表現は「私が考える」の省略形だと言ってもよい。しかし、このごく当たり前の解釈は本当に正しいのだろうか。20世紀の哲学や精神分析はこの自明の前提に疑いを投げ掛けた。そして前世紀の70年代からフランスを中心に世界を席巻したポストモダニズムは「主体の死」を宣言した。ここで「主体の死」の「主体」とはデカルト的な「主体」=「考える私」を意味する。この観点からすると、「私が考える」という自明の前提は間違っている、あるいは無意味だということになる。強いて言うならば、「私が(主体的に)考える」のではなく、「私は不可視の「考える」場に在り、その場こそが「私」の存在と思考を可能にする」とでも言うことになろう。作家は小説を自主的に「書く」のではなく、彼あるいは彼女が置かれている場により小説を「書く」ことを強いられる。ただそれに気が付かないだけだ。作品は作家の創造ではなく、作家が置かれている場の創造物になる。このような主張は意表を突くものだが、ごく平凡なものだと言うこともできる。誰も無から思考することはできない。言葉や計算や共同体の規則を習い、考える題材が周囲に存在することで私は初めて考えることができる。そして考えている最中にも(過去の体験や教育から得た)暗黙の前提を無意識のうちに参照しており、さらに考える者を取り囲む(社会的並びに自然的)環境が思考過程とその帰結に決定的な影響を与える。この点に留意すれば「私が考える」という前提は不適切であるというポストモダニズムの主張にも理があることが分かる。だが、本当のところは、これは一つのメタファーに過ぎないと言うべきだろう。デカルトを先駆者とする近代西洋思想は人間中心主義で、「個人(私)」(それも自己意識を有する個人)の主体としての能力を過大評価してきた。私は絶え間なく社会的又は自然的な諸環境に影響されており、その影響の中でのみ生きることが出来、考えることができる。それを無視して完全に自律した「主体=考える私」が存在するという主張は間違っている。しかし、このことは一般的に、「考えるのは私だ」ということを否定するものではない。もしも、「私が考える」が完全に間違っているのであれば、作家や発明家が著作権を主張することは不法だということになる。犯罪者を罰することもできなくなる。「私が考える」からこそ、当事者に名誉や富を与え、刑罰や損害賠償責任を付与することが正当化される。しかも、裁判では被告の経歴や置かれた環境が配慮され、栄誉を与えられた天才が恩師、家族、自分を支えてくれた人々に感謝の意を表するように、「私が考える」という行為を評価するとき、環境要因が極めて重要であることがすでに配慮されている。ポストモダニズムはデカルト以来の近代西洋哲学の暗黙の前提に異議を唱え、また近代西洋哲学がしばしば等閑視したことを強調した点で大きな意義を有するが、「私が考える」ことを否定するものではなく、寧ろ「考える」ことの意味を探究することで考える者が「私」であることを再確認したと言ってもよい。

 突然閃く、理由もなくあることを思い出すなどという体験を表現する「無意識の思考」をどのように考えるのかという問題がある。これは前述の言語分析やポストモダニズム的主体批判と密接な関係がある。しかし、自己同一性を認識する自己意識を有する「私」が存在する限り、無意識の思考は「私が考える」ことを否定するものでも、「考えること」を言葉の分析に解消するものでもない。

 こうして、「考える」とは「私が考える」ことであり、それは単なる便宜的な表現ではなく実質を有するものであることが確認できた。そこで、次回以降では次の3つの視点から「考える」ことの意味を探究していくことにする。
@脳科学、人工知能、数学基礎論など自然科学的又は数学的な観点から「考える」(=私が考える)ことの意味を考察する。
A社会学的観点から、「考える」ことが何を意味し、それがどのような働きをしているのか、又社会からどのような影響を受けているのかを考察する。
B倫理的な観点から「考える」ことの意味を議論する。

 「考える」は、自然科学と技術、社会科学、倫理学の3つの視点から議論ができる。そしてこの3つの議論とその帰結はそれぞれ関連しながらも異なっている。これを混同するところから不毛な哲学的議論が発生することを指摘して本稿(第1回)は筆を置くことにする。


(H22/5/27記)


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