☆ 資本論と未来(その4) ☆

井出 薫

⇒『資本論と未来(その1)』
⇒『資本論と未来(その2)』
⇒『資本論と未来(その3)』

 前回の議論で、資本論にはマルクスの価値観が強く反映されていることを指摘した。ここで資本論の中心的な概念である「資本」に着目してみる。

 マルクスは、「資本」を「自己増殖する価値体」として定義する。もっとも簡単な定式は貨幣の増加として表現される。
 G⇒W⇒G+ΔG(ΔG>0)
資本生産や流通に関する議論が深まるとともに資本の定式化はより精緻なものとなっていくが、マルクスの「資本」に関する根本思想はこの簡単な定式で表現されている。マルクスは固定資産と流動資産の区別を無視している訳ではなく、固定資産は一回の生産サイクルで全価値を商品に移転するのではなく耐用年数に応じて一部だけを商品に移転することを認めている。その意味でマルクスはストックを無視している訳ではない。しかしながらマルクスにとって「資本」がフロー概念でありストック概念ではないことは間違いない。

 現代経済学では、「資本」とは、貸借対照表に記される総資産または純資産、株主資本などを意味し、マルクスとは対照的にストック概念として捉えられている。

 「資本」をフロー概念として捉える立場は、「労働者の剰余労働を搾取することで資本主義は成立している」というマルクスの主張を正当化するには極めて都合がよい。しかし資本をストックから見る必要性があることを看過する訳にはいかない。事実、マルクスも「資本の蓄積過程」(資本論第1部第7篇)で、資本が資本として機能するためには一定以上の規模が必要であるとし、「資本」がストック概念であることを認めている。また、(遺稿である)資本論第2部で展開される社会的総生産に関する議論では、耐久性を持つ生産財と消費財が明確に分離され、ストック概念としての資本に焦点が当てられている。しかしながら、マルクスにとって資本とはあくまでも剰余労働搾取を含むフロー概念であり、ストック概念ではない。

 マルクスは資本をフローとして捉えることで、資本主義には、資本家による労働者の搾取という側面が確実に存在することを明らかにした。そのことは労働者の待遇が改善された現代でも依然として成り立つ。しかし、その一方で、(先進国とそれに準じる国に限定されているとは言え)労働者が自宅や貯金など資産を所有し、年金や各種社会保険の受給資格を有する現代資本主義社会の現実を捉えることには失敗する。マルクスの資本論への熱狂的支持が衰退したのは、ソ連など旧共産圏が崩壊し、中国が市場経済に移行した結果だけではなく、理論の予言と資本主義の現実との乖離が拡大した影響が大きい。それはマルクスが専ら資本をフローとして見たことからもたらされる必然だと言ってよい。

 一方、現代経済学は資本を専らストック概念として捉える。それは企業や社会全体の富の状況を把握する有効な手段として機能する。しかしマルクスにおいては的確に把握されていた労働者の搾取という事実が看過される。たとえば自由主義経済論者は規制緩和と市場の自由化が富の増大に有効であることを盛んに強調するが、その結果、金融商品の運用で巨万の富を手に入れることが無批判に正当化されると同時に、その背後で貧困にあえぐ労働者の存在が隠蔽される。これは、現代経済学が資本を専らストックとして捉えることで、フローとしての資本においてのみ見ることができる労働搾取が看過されることが多分に影響している。

 資本という概念は、フローとして捉えることも、ストックとして捉えることもできる。それは解明するべき対象の違いから生じる(M・ウェーバーが述べる)理念型の相違として説明することができる。そして、このことはマルクスと現代経済学の間には、理念型選択の土台となる価値観に決定的な差異が存在することを示している。

 ウェーバーは、理念型の選択において価値観が反映することは不可避だが、理念型の内部での理論は(価値観に依存しない)価値自由でなくてはならないと主張した。しかし実際は、理念型選択後も、価値観に基づく推論と判断が理論に紛れ込んでいくことは避けられない。そのことは、マルクスがフロー概念として資本を定義したにも拘わらず、ストック概念としての資本の役割に着目せざるを得なかったこと−しかしながらそれでもマルクスが一貫した体系を構築するために、あくまでもフロー概念としての資本に固執することが不可欠であったこと、逆に、現代経済学において、マクロ経済学の最も重要な指標がフロー概念であるGDPであることに示唆される。つまり、フロー概念として資本を定義した理念型の世界と、ストック概念として資本を定義した理念型の世界とは、クロスオーバーして、互いに激しい論戦を繰り広げることになる。それは、最初の価値判断(「フロー概念としての資本」、「ストック概念としての資本」という選択)が、理念型の内部での議論において絶え間なく再認識され、そのことに基づく新たな価値判断が理論の内部で遂行されていることを意味する。

 価値判断に基づく理念型選択、理念型内部での価値自由な研究という図式は成立しない。そして、このことはマルクス経済学か(マルクス主義者がブルジョア経済学と非難する)現代経済学かという選択には意味がないことを示唆している。最初にどちらか一方を選択したとしても、その後の研究で相手側の論理を意識的あるいは無意識的に援用せざるを得なくなり、それにも拘わらず理論的一貫性を維持するために最初の選択に固執せざるをえないからだ。

 こうして、マルクス「資本論」の倫理的・規範科学的な性格が明らかになる。−実は、それは全ての人間科学、社会科学に共通の性格なのだ。−そして、マルクス「資本論」をどのように評価するか、そこから何が学ぶことができるのか、あるいは学ぶことができないのか、という問題は、資本論が有する倫理的・規範科学的性格に着目することで初めて明らかにすることができる。それが私たちの次の課題となる。


(H22/4/18記)


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