☆ 心の研究法 ☆

井出 薫

 これまでも「心」について幾度となく語ってきたが、筆者の基本的な立場は、「自然科学は脳の活動と心的現象の相関関係を解明することはできるが、心の本質を解明することはできない」というものだった。そして、心の本質は「なぜ心が存在するのか」という問いで表現される。

 自然科学的な方法では「心」は研究できない。「心」は誰もがそれが何であるかを知っているが、外的物体のように指し示すことはできない。電流のように測定器を動かすこともない。ただ存在が確実なだけで、それを指し示すことも、機械を使って測ることもできない。考えているときの脳細胞の活動を記録することはできる。しかしそれは脳の活動の記録であり心の記録ではない。

 脳の記録が心の記録ではないことは自明のことと言ってよい。脳神経ネットワークの化学反応と電気信号の流れと、心の在り方とは似ても似つかない。それゆえ心脳同一説や唯物論では心を説明することはできない。そこで哲学者は、二元論、並行説、随伴説など、心と身体の関係について様々な学説を提唱してきた。しかしながら、どれ一つとして人々を納得させることはできなかった。それは明確な方法論が確立されていなかったからだと言えよう。

 このように、心の本質は伝統的な科学や哲学では説明できない。尤も、これは脳科学や人工知能研究が心の研究に役立たないということではない。脳医学は人が意識を失っているとき脳で何が起きているか説明することができる。鬱状態になっている者の脳の特徴を探究することもできる。脳科学が進歩すれば、被験者や患者が何を考えているか、どのような気分か、脳の状態から推測することができるようになるだろう。忘れていることを特定の刺激を与えて思い出させることも可能となるに違いない。それでも、なぜ心なる現象が脳の活動とは別に、あるいは並行して起きなくてはならないのか、それを説明することは自然科学の守備範囲外にある。また、心には数学のような厳密な論理性が欠けており、数学も心の解明には役立たない。

 従って、伝統的な哲学がその解明に成功していないとは言え、心を理解するためには哲学的研究が欠かせない。哲学は物理学や生物学のような実証科学ではなく、現実の物を操作する道具を作り出すことはできない。しかし心が身体に還元できず数学的な論理性を有しない以上、物を扱う実証科学や明快な論理を持つ数学とは異質な学である哲学以外に心の問題に接近できる学は存在しない。そもそも古代ギリシャから哲学者と呼ばれる者たちは、結局のところ、心と言葉の問題を専ら扱ってきたと言っても過言ではない。そして実証科学が進歩し多くの自然並びに社会現象が合理的に説明できるようになっても、なお哲学が人々の興味を惹きつけているのは、心の問題が未解決のままに残されているからだと言ってよい。

 哲学的な研究法として、言語分析や論理分析を重視する分析哲学の手法と、フッサールの現象学的な手法とがある。現在は、分析哲学系の哲学者が専ら「心」の問題を扱う傾向にあるが、言葉や記号の論理の分析で心を解明することには限界がある。それは数学や科学にとっては一定の有効性が認められるが、心の問題には適用できない。なぜなら、心が内部に留まるのに対して、言葉や記号は外部に在るからだ。

 それ故、現時点では、現象学的な方法が心の問題を解決するための最良の方法と考えられる。現象学的な手法は、心の特徴(たとえば、志向性、自己言及性=自己意識、クオリア、近さ、記憶と想起など)を列挙し、働きを明らかにする。それは決して数学的な第一原理からの演繹を可能とすることはないが、「心の実相」を捉えることができる。それは心をどのように記述し分類すればよいのかという問題に手掛かりを与える。そして、その基礎の上で初めて脳科学や人工知能研究は実りある成果を挙げることができる。
(注)現象学の創始者フッサールは、プラトン、デカルト、カントの伝統に倣い、現象学的手法を「心」の解明という心理学的研究ではなく、心理学などあらゆる学を基礎づける超越論的で厳密な学(=哲学)の構成に用いる。そこでは自然主義的な心理学とフッサールの超越論的心理学の差異が執拗に強調される。だが、フッサールの現象学は、その独特の哲学用語と論述法を除くと、内観法に近く、普通の心理学との違いはほとんど見当たらない。現象学に基づく超越論的哲学が袋小路に陥っている現在、現象学は超越論的哲学に至る道ではなく、心理学研究の貴重な手法だとみなすべきだろう。

 「心」とその研究方法の本格的な考察は別の機会に譲る。但し、本稿の結論として、言語論理分析ではなく、現象学こそが心の解明の第一手段であることを再度明記しておく。


(H22/3/29記)


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