☆ ハイデガーとウィトゲンシュタイン ☆

井出 薫

 1889年生まれの20世紀を代表する二人の哲学者ハイデガーとウィトゲンシュタイン。二人の哲学には良く似たところと、全く正反対なところがある。

 ハイデガーの、「気遣い・不安」、「存在了解」、「語り」、「ダス・マン(日常に転落しているただの人)」から構成される「世界=内=存在」は、「家族的類似性」、「私的言語批判」、「言語ゲーム」、「生活形式の一致」のウィトゲンシュタインとよく似ている。二人とも世界の外から世界を眺めるという超越的な視点を拒否し、デカルト以来の伝統的な主体概念の批判を展開しポストモダニズムの先駆者と目される。その一方で、「存在了解」が「解釈」を含む点でハイデガーは、「人は規則に従うとき盲目的に従う」あるいは「如何なる行為も規則に一致させることができる」と述べるウィトゲンシュタインの対極に位置する。ウィトゲンシュタインにとって「解釈」は問題になりえない。(意識的なものであろうと、無意識的なものであろうと)解釈は何も決めることはなく、ただ空転する。ハイデガーは最後まで哲学的思索に拘り、一方、ウィトゲンシュタインは最後まで哲学の解消に努めた。この二人の生きざまの違いは、解釈を重視するか、解釈の意義を否定するか、という観点から理解することができる。

 規則と解釈に関して言えば、ウィトゲンシュタインの考えの方が妥当だと思われる。解釈には限りがなく、解釈学的な方法では記号の意味も規則の使用方法も決まらない。ハイデガーは存在者に対する存在の優位性を主張して、「「存在」が何であるか了解しているからこそ、人は「存在者」と出会うことができる」と論じているが、これは明らかに解釈学的な見方(=「存在」の理解に基づき「存在者」の意味を解釈する)に通じており、ウィトゲンシュタインの規則論(=解釈学的思考の批判)に基づき論破することができる。実際、私たちは「存在」に関する理解などなくとも、あらゆる存在者と(驚きや不安に襲われることはあったとしても)出会うことができる。

 しかしながらウィトゲンシュタインがハイデガーより優れているとは言えない。ウィトゲンシュタインの哲学では、不可解だが、誰もその存在を否定できない「心」(あるいは意識、または精神と言ってもよい)が上手く説明できない。ウィトゲンシュタインの思想に従うと(如何にウィトゲンシュタインがそれを否定しても)人間とロボットの違いは発見できない。一方、「意識とは全て自己意識である」と語るハイデガーは、その哲学の中に、この確実なる存在である「心」を無理なく取り込んでいる。その点で、実存思想や解釈学を巧みに取り込み消化しているハイデガーの方が人間存在をより的確に把握している。それは「心」(あるいは「意識」)が解釈作用として理解される存在だからだ。

 こうしてハイデガーとウィトゲンシュタインは同じ地平に属しながら、両極に位置し、それぞれ正反対の利点と難点を孕みつつ、私たちの前に聳え立っている。だからと言って、両者の優れたところをつまみ食いするわけにはいかない。ハイデガーもウィトゲンシュタインも良いところを取るとどうしてもその悪いところがついてくる。結局、どちらを好むかはその人の思想と気質による。筆者はウィトゲンシュタインを好み、ウィトゲンシュタインの欠陥をハイデガーとは全く違う遣り方で克服しようとしてきた(勿論筆者の如き凡庸の徒にできるはずがないのだが)。しかしハイデガーから出発することもできるし、二人とも無視することもできる。しかし、ハイデガーとウィトゲンシュタインほどの良くも悪くも魅力ある哲学者とその思想を全く省みないというのも惜しい話しだと思う。大きな書店や図書館には二人の解説書が山ほどある。たまには、こういう本を手にしてみては如何だろうか。必ず得るところがあるはずだ。但し詰らなかったと言って筆者を責めるのだけは勘弁してもらいたい。


(H22/2/21記)


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