井出 薫
等式を表現する記号「=」は数学を始めとして広く使用される。だが一見自明な「=」には様々な謎が隠されている。 数学では「=」の明確な定義がある。二項関係Rに対して次の三条件が成立するとき、Rは同値関係と呼ばれ、それを等式「=」で表現する。 @反射律:aRa A対称律:aRbならばbRa B推移律:aRbかつbRcならばaRc 「a=a」、「「a=b」ならば「b=a」」、「「a=b」かつ「b=c」ならば「a=c」」、この三条件を記号「=」が満たすことは容易に確かめることができる(注)。いずれにしろ、数学では「=」に不確実性はない。だが、他の分野ではそうはいかない。 (注)厳密に言うと、等号「=」の条件として任意のP(変数を含む関数や述語)に対して代入原理「「a=b」ならば「P(a)=P(b)」を追加することで、等式「=」の4番目の条件とするのが通常の遣り方であるが、ここではこれ以上立ち入らない。 マルクスは、「資本論」の冒頭で労働価値説に続いて価値形態論を展開し、「=」を議論の俎上に載せている。 「20エレのリンネル=1着の上着」この等式がどのような意味を持つのか、これがマルクスの問いだ。本稿ではマルクスの議論を援用して「=」の社会的な意味を考えてみる。 次の等式を考えよう。 「牛肉200g=LANケーブル5m」 この等式は本来無意味だ。なぜなら左辺は重量(グラム(g))が単位で、右辺は長さ(メートル(m))が単位だからだ。同じ単位で比較しないと「=」で両辺を結ぶことはできない。私は身長164cm、体重58kgだが、「身長164cm=体重58kg」と書くことに意味はない。だが、商品経済という体制においては、しばしば「牛肉200gはLANケーブル5mに等しい価値を持つ」という表現がなされる。また、財布に500円しかなければ、牛肉とLANケーブルのどちらか一方しか購入できない。それゆえ、ここで等号「=」を導入することを無意味だとは言い切れない。そうは言っても、重量と長さを比較することはできない。では、何が「=」の導入を有意味なものとするのだろう。少し考えれば、それが価格であることに気が付く。「牛肉200g=500円」、「LANケーブル5m=500円」、その結果、「牛肉200g=LANケーブル5m」という表現に意味が与えられる。しかし、これで問題が解決した訳ではない。「牛肉200g=500円」は、左辺の単位が重量、右辺の単位が日本通貨で、依然として異なる単位で両辺が比較されている。それゆえ「牛肉200g=LANケーブル5m」という等式が有する欠陥は解消されていない。 マルクスは、ここで、労働価値説を援用して等号の両辺は、等量の(生産に必要な)社会的平均労働時間を含んでいると主張する。つまり直接は現れてこない社会的平均労働時間が等式を成立させる根拠となっているとマルクスは説く。マルクスは、商品交換において、「20エレのリンネル=1着の上着」という単純な価値形態における、両辺の非対称性(「20エレのリンネル」の所有者Xにとって、リンネルは使用価値がなく、Xが欲しいものは1着の上着である、という意味での両辺の非対称性)に着目して、単純な価値形態から、展開された価値形態、一般的価値形態、貨幣形態へと論理を展開し、貨幣の謎を解き明かす。しかし、このマルクスの価値形態の議論には欠点がある。 マルクスの時代においては、すでに銀行券が大量に流通していたとは言え、貨幣は一般に貴金属の価値に裏打ちされたもの、貨幣の価値の根拠は金銀などの貴金属にあると考えられていたために、マルクスは異なる商品を等式で結び付ける根拠として労働時間の存在を主張することになった。「500円」という貨幣そのものが労働生産物と考えることができたからだ。しかし現代では貨幣価値は貴金属の価値とは切り離されており、もはや貨幣はリアルな物としての価値から分離された自律的な存在となっており、社会的平均労働時間を等式の根拠とすることはできない。貨幣単位を政治的判断で変更することが可能で、異なる通貨の交換比率は投機的思惑で絶え間なく変動しており、交換比率を規定する確固たる基準や原理は存在しない。それゆえ、等式を成立させる根拠を労働時間に求めることはできない。現代においては、電子化された口座の数値という労働を必要としない空疎な記号が貨幣として商品流通を媒介しており、そこでは労働時間を価値の基盤に据える余地はない。この空疎な記号が媒介する労働生産物としての商品(牛肉200g、LANケーブル5mなど)には、等量の労働時間が含有されているのだと言い張ることはできるが、それを証明する手立てはない。と言うのは、等式「牛肉200g=LANケーブル5m」の根拠は、「牛肉200g=500円」かつ「LANケーブル5m=500円」であり、それ以外に何物もないからだ。労働時間を基礎に据えるためには次のように強弁するしかない。「理屈はとにかく、あらゆる商品は労働により生まれる。だから、労働時間しか基準はない」と。だが「全ての商品は労働の産物」が正しいとしても、「商品交換の等式の根拠は社会的平均労働時間」という帰結は導出されない。寧ろリアルな物である牛肉200gを売却した者が、売って得た(空疎な記号に過ぎない)貨幣を長く使用せずに貯蓄することができるという事実は、等式の根拠に労働時間を持ち出すことが不可能であることを強く示唆する。なぜなら労働時間が等式の根拠であるならば、(空疎な記号としての)貨幣は価値がないから、貨幣の持ち手は可及的速やかにリアルな物を購入しなくてはならなくなるはずだからだ。 では、「牛肉200g=LANケーブル5m」という等式には何の根拠もないのだろうか。柄谷行人はその著「マルクスその可能性の中心」で、マルクスの価値形態論を援用しながらも「根拠はない」と論じ、売り手は(マルクスの言葉を引用して)命がけの跳躍をしなくてはならないと主張する。確かに労働時間が根拠にならないとすれば、柄谷の主張にも一定の説得力がある。だが、市場での商品売買で現代社会が維持されているという現実を考えると、この等式を無根拠だと言うのは無理がある。もし本当に無根拠ならば市場経済は遥か昔に崩壊している。 マルクスの主張は、量的な厳密性という観点では正しくない。しかし「牛肉200g=LANケーブル5m」の両辺が共に労働生産物であるというところまでは間違いなく正しい。問題は、この等式が「牛肉200g=500円」という右辺が(単なる電子的な数値など)労働生産物である必要がない貨幣と等値されることで初めて基礎づけられるという点にある。この問題をどう解決すればよいのだろうか。 マルクスは、価値形態論で、「20エレのリンネル=1着の上着」(「20エレのリンネルは1着の上着に値する」と読む)という単純な価値形態を出発点として、展開された価値形態、一般的価値形態、貨幣形態と論理を展開し、商品価値から貨幣の存在を説明した。さらに、マルクスは、それは人類の歴史的展開ともある程度合致すると述べている。つまり、マルクスは、資本論において、単純な物々交換から、貨幣が介在することで社会を全面的に支えることが可能となった拡大された市場経済への移行、その過程での貨幣登場を論理的に説明しようとしたのだと言ってよい。だが、この説明図式にこそ難点がある。貨幣が登場するまで、労働生産物の交換は、偶発的な出来事であるか、共同体内での分業に伴う生産手段と生産物間の交換であるか、このいずれかに過ぎなかった。貨幣がなければ市場経済はそもそも成り立たず、市場経済がない限り、労働生産物は商品とはなりえない。商品とは(マルクスにとっても)「自分が消費するのではなく、それと交換に自分が消費する物を手に入れるために生産する物、つまり交換を目的として他人のために生産する物」であるから、貨幣に支持された安定した市場が存在しない限り、人々は偶発的に余剰となった生産物を他人の生産物と交換することはあっても、商品生産に従事することはない。つまり貨幣があって初めて労働生産物が商品となるのであって、商品があって、そこから貨幣が生まれるのではない。それゆえ、価値形態論は、単純な価値形態から(幾つかの段階を経て)貨幣形態へと至るのではなく、寧ろ、貨幣形態から出発するべきで、また同時に商品から貨幣の誕生を説明するのではなく、貨幣から商品の誕生を説明するべきなのだ。 本稿は「牛肉200g=LANケーブル5m」という等式から出発して、「牛肉200g=500円」という等式へと議論を展開した。実は、これは資本論の価値形態論を模倣したものだった。しかし、「牛肉200g=500円」という等式から寧ろ出発するべきだったのだ。そうすれば、社会的平均労働時間という基盤が存在しえないことが最初からはっきりする。マルクスの時代は貨幣が金銀など貴金属の価値と強い相関を持っていたとしても、貨幣は本質的に労働生産物である必要はない。そして、この貨幣形態の等式はそれをはっきりと示している。だが、同時に、この等式から、「労働生産物=貨幣」という等式しかありえないことが分かる。「1ドル=100円」とう為替レートは、「ミネラルウォータ500cc=1ドル=100円」という等式の省略形でしない。貨幣だけしかこの世に存在しないとしたら、貨幣に価値があるだろうか。無いに決まっている。触る物全てが金に変わった男は餓死するしかなかった。それゆえ貨幣形態は原初的な価値形態であるとは言え、そこでは常に労働生産物が左辺に存在することが暗黙のうちに要請されている。 ここから、「「牛肉200g=500円」さらには(マルクスに反して寧ろその発展形である)「牛肉200g=LANケーブル5m」の基盤が明らかになる。マルクスは「人間の本質とは、社会的諸関係の総体である」と論じている(「フォイエルバッハに関するテーゼ」)。正に、この等式を支えるところのものは、単に、生産に必要となる社会的平均労働時間ではなく、社会を取り巻く自然環境、需要、供給、労働力と生産手段の分布、科学技術など経済的諸要因、政治、外交、法制度、文化、学問、イデオロギーなどあらゆる社会的諸関係の総体なのだ。確かに、社会的平均労働時間は労働者が生きていくために必要となる最低限の賃金を商品の価格が下回ることはできないという意味で、価値形態の等式を決定する重要な要素の一つではある。しかし、決してそれが全てではない。 こうして、「=」が表現する関係は無根拠ではなく根拠があることがはっきりする。但し、それが広範な領域を含むものであるが故に、根拠となる地盤は常に揺らいでおり、それゆえ「=」の左辺と右辺の量的関係は絶えず変動することになる。それは生産力が向上し人々が豊かになるほど社会の様相が多様になるが故に顕著となる。たとえ計画経済に転換しても、この変動を避けることはできず、寧ろ、そのことから計画経済は破綻する運命にあり、市場経済が唯一の合理的な経済運営の方法となる。 (注)但し、他の論稿で述べてきたとおり、筆者は、資本主義的市場経済を支持する者ではない。政治経済体制を抜本的に改革して公正な社会を作り、その土台の上で市場を適切に制御することで、変動を最小限に抑え、貧困を地上から一掃することが不可欠であり且つ可能であると考えている。 最後に一つ注意しておこう。「=」は常に、この複雑で変動を余儀なくされ、それゆえ人々を絶えず動揺させる社会的諸関係の総体という基盤を隠蔽する作用がある。「=」の基礎に労働時間があると見たマルクスも例外ではなく、この隠蔽作用から自由ではなかった。そして、現代人も、また、経済的な難問が発生するたびに特定の階層や組織・制度に諸悪の根源があると推測しがちであるが、問題は決してそのような容易いものではない。このことを忘れないようにしないと適切な行動を取ることはできない。 了
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