井出 薫
ゲーデルの不完全性定理は、不可解でそして魅力に富んでいる。だから哲学的な考察をするときにはいつでも話題になる。ゲーデル自身が実に哲学的、宗教的な人物だった。 ゲーデルの不完全性定理は、整合的で数論の諸問題を解決するために十分強力な形式的な数論体系では、証明もできなければ、その否定を証明することもできない命題Qが必ず存在することを示している。たとえ、Qまたは¬Q(Qの否定)を公理に追加しても、また新たに証明も否定の証明もできない命題Q’が登場し、この手続きには限がなく、必ず肯定も否定も証明できない命題が存在することになる(第一定理)。さらに、対象となっている数論体系の無矛盾性はその体系の中では証明できないことも示される(第2定理)。 無矛盾と仮定された形式的数論体系において、次のような命題を作ることができるところに、ゲーデルの不完全性定理の核心がある。 命題Q:「命題Qは証明不可能である」 この命題が証明できると仮定する。すると命題Qは証明できることになり矛盾。¬Qが証明できるとすると、¬Qは「命題Qは証明可能である」を意味するから、Qと¬Qがともに証明可能となり矛盾。従って、Qも¬Qも証明できない。このような自己言及的な命題Qを構成することができる理由は、形式化された数論体系の様々な記号に互いに異なる数を割り当てることで、「証明可能」という性質を数(ゲーデル数)で表現できるからだ。正に、ここに自己言及的な構造が現れている。数を扱う数学体系それ自体が数で表現されるために、対象(素朴な自然数論)と証明体系(形式化された数論体系)とが同じ地平に存在することになり、自己言及的な命題が構成される。それにより肯定も否定も証明できない命題の存在が証明される。 このような命題Qには何の意味もないではないかと疑問を持つ者もいるかもしれない。しかし命題Qは数学的に明確な意味を持つ命題であり単なる言葉遊びのように見えても数学的に深い意味がある。さらに第2定理が示す数論体系の証明不可能性は数学体系の普遍的な性質として一般化可能で、数学的に極めて重要な意味を持つ。つまり、第2定理から、どのような数学体系を構築しても、それだけでは単独で完全な数学を形成することは不可能だということが示される。それは数学が常に開かれた存在であることを示す。数学は人間の頭が生み出した産物で現実世界とは関係がないと思われることがあるが、それは違う。人間の頭が生み出す産物は常に有限で、カントール以降の無限集合論も、(1を足し続けて幾らでも大きな自然数を作ることができるというような、単なる有限の否定としての消極的無限ではなく)実無限という概念を取り入れ操作しているとはいえ、有限な記号群の集まりであることに変わりはない。それゆえ実無限を扱っているとは言っても、その産物自身は無限に到達することはない。ところが、数学体系が常に開かれているということは、数学が人間の頭を超えていることを示す。このことは、ウィトゲンシュタインが発見した「規則は人間の行為を決定しない。なぜなら、どのような行為も規則と合致させることができるから」という驚くべき帰結とよく似たところがある。人間は規則を定め、人々の行動を規制して安定した社会を構築しようとするが、規則は人間が生み出したものであり、それゆえ有限なものであるはずなのに、規則は行為を決定せず、規則は行為との関わりの中で、規則そのものの働きとして規則を限りなく拡大していく。つまり規則は人間を超えていくという性質を持つ。そして数学も同じ性質を共有する。 (注)数学は規則の一種だから当り前だと思えるかもしれないが、そうではない。数学は規則には還元できない。ゲーデルの不完全性定理はそのことを示したとも言える。逆に規則も全て数学に還元できる訳ではない。数学化不可能な規則もある。それゆえ、規則も、数学も共に人間を超えていくが、その超越の仕方は異なると言わなくてはならない。 ゲーデルの不完全定理だけをみると、これは特殊な数学という世界の話しに留まると思えるかもしれない。ところが、プログラムの停止問題の決定不可能性を考えれば、不完全性定理と類似した理論が様々な領域に存在することが分かる。コンピュータプログラムは、産業活動においても日常生活においても社会を飛躍的に進歩させたが、難点がある。バグが付き纏うということだ。もし、あらゆるプログラムにバグが存在するかどうかを判定するプログラムが存在すれば、バグで悩まされることはなくなる。ところが残念なことにそのようなプログラムは存在しないことが証明できる。ここでも自己言及的な構造が証明の鍵を握る。要は判定プログラム自身がプログラムであるというところに不可能性の源泉が潜んでいる。いずれにしろゲーデルの不完全性定理の思想はけっして数学分野限定の性質ではない。 ここでゲーデルの不完全性定理に戻ろう。命題Qは証明できず、否定命題¬Qも証明できない。しかし、命題Qが証明できないということは、命題Qは内容的(意味的)には真であることを示している。なぜなら命題Qの内容は「命題Qは証明不可能である」だからだ。証明不可能という論証が命題Qの真理性を保証している。この事実は、真理と証明可能性とが異なることを意味する。だが、よく考えると、たった今、命題Qが真理であることを私たちは証明したのではないだろうか。 このことは真理を把握する方法が数学的な証明だけではないことを意味している。論理的な推論は全て数学化することができる。それゆえ論理だけでは人間が理解可能な真理の全てを汲みつくすことはできないことが分かる。真理は数学と論理よりも広い。真理は知的な論証で発見されるものだけではなく、直観により把握されるものも含まれる。いや、現実には直観の方が常に推論よりも重要な役割を果たしている。幾何学の証明を考えてみよう。そこでは直観が如何に大きな働きをしているか、直観抜きで記号を規則に従って操作するだけでは何も証明できないことを容易に見て取ることができるだろう。 真理と証明可能性の差異は直観による真理把握の不可欠性を示している。しかし直観はけっして神秘な存在ではない。直観を可能にするのは視覚、聴覚、触覚など様々な人間の感覚による。つまり直観の源泉は人間の身体にある。そして身体は常に外部の自然環境と繋がっている。それゆえ直観は人間が身体的な存在で自然環境に埋め込まれていることに基づく。論理や形式的な数論体系などは人間精神固有の産物だと言ってもよいかもしれない。だが、それだけでは真理を汲みつくすことをできない。真理とは人間と自然との関わりにおいて初めて発見される。そのことを一見したところ現実とは無縁な純粋数学の定理であるように見える不完全性定理が示している。この事実こそ、数学研究が、数学に留まることなく、哲学的あるいは人間学的な意味を有することを示している。 了
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