☆ 存在論と認識論 ☆

井出 薫

 存在論と認識論は古代より哲学の両輪を担ってきた。存在論とは何がどのように存在するかを考える学であり、認識論とはどのようにすれば真理あるいは善を知ることができるかを考える学と言ってよい。

 ヒュームの懐疑論に触発されたカント以来の近代哲学は、それまでの独断的な存在論中心の哲学から認識論に力点を置く哲学へと転回したと言われる。日本の代表的なマルクス主義哲学者、故廣松渉氏も一般読者向けの哲学書でそのように述べている。ヘーゲルはカントを批判して壮大な存在論的体系を築き上げたがそれはすぐにマルクスやキルケゴールに批判され力を失った。ヘーゲルは今でも西洋哲学史を代表する哲学者の一人として高く評価されているが、優れた社会分析、卓越した歴史や美学への評論、さらにはマルクス主義やプラグマティズムなど後世への影響の大きさから高い評価を受けていると言うのが適当で、その存在論的体系は哲学研究者以外にはほとんど無視されている。実際、正・反・合あるいは即自・対自・即且対自の弁証法は今でもしばしば引用されるが、レトリックに過ぎず、そのもの自体に大した意義はない。ハイデガーは主著「存在と時間」でアリストテレスを引用し「存在論」こそ哲学の第一課題だと宣告した。しかし、それは伝統的存在論の認識論に対する優位性を主張することを意図したものではない。ハイデガーは、伝統的な存在論と認識論という図式そのものを克服するために、「存在者」ではなく「存在(在る)」への問いこそを優先させる必要があると考えた。つまりハイデガーの「存在(在る)」論は、それまでの認識論と存在論の共通の基盤を解明することを目指したものであり、伝統的な存在論の優位性を主張したものではない。そしてハイデガーの「存在(在る)」を解明する方法と論述の仕方は、カント的な立場を徹底させた現象学のフッサールや、やはりカントの影響が大きい哲学的解釈学のディルタイなどに依拠しており、認識論優位主義的な近代哲学を批判的に論評しながらも、その思索の中心をなしているのは認識論的な思考方法であることは変わりない。このことは、ハイデガーと並び20世紀を代表する哲学者と称されるウィトゲンシュタイン、実存主義、実存主義を批判的に克服することを目指した構造主義並びにポスト構造主義、またカント的伝統を有する分析哲学などにおいても変わるところはない。総じて、哲学は、カント以降、認識論を軸とする体系と方法を有する学として現代に至っている。

 近代哲学において存在論が後退したことには、存在論的諸問題、この世界に何が存在し、どのような性質を有するのか、という問題が、近代以降、主として個別科学で扱われるようになり、しかも個別科学が画期的な成果を挙げ哲学から大きく離脱したことが決定的な影響を与えている。心の問題は解き難い難問として残っているが、身体の構造や機能を哲学者に尋ねる者はいない。宇宙の構造や歴史は物理学者の独壇場で哲学者の出る幕はない。人間や様々な生物種の遺伝や生存の仕組みを哲学者に尋ねても何も得るところはない。社会科学に目を転じても、経済、政治、法、各分野で個別の学問が大いに興隆して哲学を必要とすることはほとんどない。心理学も生理学的な色彩が強い分野では哲学を必要としないし、精神医学など生物学的な基礎が確立されていない分野でも哲学の出番は著しく減っている。こうして哲学の主要な役割は必然的に存在論ではなく認識論へと移っていく。ここでは認識論は単に科学的真理を得るための方法論ではなく、善あるいは正義の探究と根拠を問うという役割を担う。如何に科学が進歩しても、正義とは何か、善とは何か、如何に生きるべきか、こういう問題には科学は参考資料を用意できても、解答を与えることはできない。かつては宗教がこれらの問いに答えを与えたが、グローバル化が進み様々な宗派が共存する現代、宗教で解決できることは限られている。その結果、様々な科学や宗教、文化を包括的に論じる認識論的哲学こそが、現代哲学の存在意義を支えている。さらに、そもそも、「何が存在するか」、「存在する者はどのような性質を持っているのか」という存在論的問題に対する解答の妥当性を吟味するには、それに先立ち認識論的課題(=どうすれば正しい知識が得られるか)を解決する必要がある。つまり実りある認識論的研究がなければ、実りある(間主観的な合意が可能となる)存在論は展開できない。

 しかしながら、このことは認識論こそが哲学の基礎であるとか、存在論は不要であるということを意味しない。認識論を展開するためには暗黙のうちに存在に関する一定の先行了解が必要となる。デカルトやフッサールは目の前に見える机が本当に存在するのかどうかを疑う。しかし、この懐疑論は暗黙のうちに「机がある」ことを前提にしている。つまり世界があり、その中に色々な物(者)、たとえば机などの諸々の物体、空間や時間、デカルト本人、フッサール本人、彼らの友人や論敵などが存在すること(=存在論)が認識論的研究に先立ち想定されている。確かに、その存在を彼らは懐疑する、それらが実在すること、認識する私とは独立に存在するという結論にすぐには同意しない(エポケー、(翻訳すると)判断停止)。とは言え、一連の考察を通じて、結局、これらの存在は容認される。確かにそれらの存在は最初のうちは自明ではない。それはただ認識論的考察を通じてのみ自明性を回復する。とは言え、良く事態を観察すれば認識論的な考察を開始するに先立ち暗黙の了解として様々な存在論的前提が用意されていたからこそ、認識論的な議論が可能となったことを見て取れる。「机が在ると信じている」からこそ、机の存在を疑うことができる。机の存在を端から信じていない者には、机の存在を疑うことには意味がない。幽霊を信じない者と幽霊の存在を議論しても意味はない。そしてハイデガーはまさしくその暗黙の存在了解を研究課題とし、伝統的存在論と認識論を共に超える思想を探究したのだった。

 現代においては、多くの場面で、認識論的問題が主題として取り上げられる。しかしながら、哲学においては、常に存在論的前提が認識論を可能とし、同時に認識論が存在論を肯定(あるいは否定)し又は新たに存在論を構成するという持ちつ持たれつの関係にあることを忘れてはならない。また存在論的問題が全て個別科学に還元された訳ではない。哲学的存在論は哲学的認識論と共にその存在意義を失うことはない。この現実を理解することで哲学が依然として重要で魅力ある学問であることを認識できる。時代が混迷するとき哲学は常に不死鳥のように蘇る。


(H21/12/31記)


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