☆ 複雑系としての地球 ☆

井出 薫

 地球には、太陽から約6千度の黒体輻射に相当する電磁波が降り注ぎ、その7割が地上と大気中で吸収される。吸収された電磁波は地球上の水循環や大気循環、生態系のエネルギー変換などで利用され、最終的には絶対温度で300度程度の赤外線として宇宙に放出される。

 地上から放出される300度の赤外線は温室効果ガスである水蒸気、二酸化炭素、メタンガス、一酸化二窒素などにより一部が吸収され、地上に再放出されることで地上を温める。これが温室効果であり、もし温室効果が存在しなければ地上は平均気温マイナス18℃(絶対温度で255度)程度になり多くの生物は死滅する。地球温暖化で温室効果ガスが悪者にされているが、人為的な活動がなければ、これらの温室効果ガスのお陰で地球には多様な生物が存在していることになる。但し、水蒸気は強力な温室効果を有するが、蒸発(地上の熱を奪う)と降雨(熱を宇宙に放出する)によって冷却化効果があり、その差分が問題となる。近年の温暖化により水蒸気の温室効果が高まっていると言われ、それが温暖化の大きな要因とされるが、水蒸気濃度は変動が激しく、その差し引きの効果を見積もることは容易ではない。

 6千度の電磁波と300度の電磁波を比較すると後者の方が運搬するエントロピーが大きく、この差分だけ、地球での無機的あるいは有機的な諸活動によるエントロピー生成が可能となり、その一部が生命活動に利用されている。もし、地球が完全な金属体で降り注ぐ太陽からの電磁波を完全反射していたら、地球には生命は存在しえない。

 地球の生態系は、太陽光をエネルギー源とし二酸化炭素から生体高分子を作り出す(光合成独立栄養生物である)植物性プランクトンと陸上植物により支えられる。太陽光以外に化学反応を利用して二酸化炭素を同化する化学合成独立栄養細菌が生態系を支えている海底の熱水噴出孔など特殊な場所もあるが、大多数の生物は光合成生物に依存して生きている。動物の方が植物よりも高等であるという印象が強いが、生態系における重要性は植物の方が遥かに大きく、動物が存在しなくとも、植物と枯れた植物を分解する微生物さえ存在すれば生態系は存続できる。動物は森のアクセサリーと言われることもあるが、動物はある意味で余剰な生物だと言ってもよく、その最たるものが地球生態系を破壊する人間だと言えよう。

 地球温暖化の6割以上が二酸化炭素増大によるものだと言われ、その削減が人類史的な課題となっているが、二酸化炭素濃度の変動と二酸化炭素濃度増大による気温上昇には様々な要因が絡み合っているために、将来を予測することは容易ではない。そのことが国際社会において削減に向けての合意形成が難しい理由の一つになっている。産業革命以来の人類の活動が二酸化炭素濃度上昇を引き起こしていることは間違いないが、他の様々な温暖化に纏わる説明や予測は全て仮説に留まる。但し、自然環境だけでは巨大隕石衝突などのカタストロフ的な事件がない限りはありえないくらいに人為的活動により地球環境が急激に変化していることは否定しようもない。だから科学的な知見が不確実であるからと言って温暖化対策、二酸化炭素削減に取り組む必要がないということにはならない。かつてチッソ水俣工場が水俣病の原因であると早い時期から指摘されながら国の認定が10年以上遅れた結果、多数の被害者を生むことになった教訓を忘れてはならない。

 そうは言っても不確実性が多いことは紛れもない事実であり、継続してより広く深い研究が必要であることも忘れるわけにはいかない。地球生態系はそれを取り囲む無機的環境と併せて、複雑系の典型で、様々な要因が複雑に絡み合って諸現象が発生するため、精確な将来予測は基本的に不可能だと言ってよい。たとえば海洋の二酸化炭素吸収をその例として挙げることができる。海水温が上昇すると海洋の植物性プランクトンによる光合成が活発化し二酸化炭素の吸収が増大し大気中の二酸化炭素濃度増大に歯止めを掛けると期待されたことがあった。しかし、この効果には疑問が多く、植物性プラントンを捕食する生物、その死骸を分解する生物の活動を考慮に入れると効果は相殺されるとも言われ、また植物性プランクトンの活動は窒素やリン、鉄などの栄養源に制約されるから海水温が上昇しても一概に光合成が増大するとは限らないという議論もある。また富栄養化した水域における植物性プランクトンの大発生が生態系に壊滅的な打撃を与えることがあるように、植物性プランクトンの増殖がたとえ二酸化炭素増大に歯止めを掛けるとしても、他の面で生態系を不安定にする可能性もある。また森林は一般に二酸化炭素吸収源とみなされ植林が二酸化炭素削減の有望な施策とされているが森林が二酸化炭素の吸収源であるという説には異論がある。土壌微生物の活動が大量の二酸化炭素を放出するために、寧ろ条件によっては吸収源ではなく放出源になるとも言われている。但し、植林は二酸化炭素削減には効果が薄くとも生態系保護には有益であり、人々の生活を豊かにするという面もあるから、二酸化炭素削減効果だけで議論するわけにはいかない。

 現時点では、二酸化炭素が最も重要な温室効果ガスであることに間違いはないが、メタンや一酸化二窒素などの効果も無視できない。特にこれらの温室効果ガスは、脱炭素社会の切り札として期待されているバイオマス活用の過程で発生することが多く、これらの温室効果ガスによる温暖化にも配慮しないと、二酸化炭素の排出量は削減したが、メタンの増加により効果は帳消しになったなどということにもなりかねない。

 さらに、広く無機的環境に目を向けると、長期的には、気温は、地球の公転軌道の変化、自転軸の回転と傾斜角の変化など天文学的な変動による太陽光の流入量の変化に大きな影響を受ける。従って二酸化炭素濃度が増加すれば常に気温が上がるとは言えない。さらに環境変化による気候変動は、陸上と海洋、地形と緯度などで異なり、温暖化は均一に起きる訳ではない。二酸化炭素濃度が一定限度を超えると熱塩循環と呼ばれる海流が変化し、地球温暖化にも拘わらず欧州は10度くらい寒冷化する危険性もあると指摘されている。

 このように地球環境は極めて複雑で未来を見通すことは人間には不可能だと言わなくてはならない。そして、この複雑な世界のお陰で人類は誕生しその恩恵を蒙ってきた。しかし、人類は知的生命などと威張っているにも拘わらず、実際には知恵に乏しく行動は単細胞的と言えるくらいに単純で、複雑な世界を単純化するという誤りを繰り返し自らの生存すら脅かしている。「複雑系としての地球」などというスローガンを掲げても問題は少しも解決しないが、人間行動の単純さと地球環境の複雑さをよく対比して、慎重に行動するよう肝に銘じておく必要がある。


(H21/12/21記)


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