☆ 資本論と未来(その3) ☆

井出 薫

⇒『資本論と未来(その1)』
⇒『資本論と未来(その2)』

 資本論の体系を数学的な公理体系とみなせば、労働価値説は公理に相当する。労働価値説という公理からマルクス資本論の根幹である剰余価値理論が無理なく演繹される。その論理的完全性はまさに数学的真理に匹敵するものであり、多くの読者が資本論に陶酔したのも無理はない。哲学や社会科学に関する著作でこれほどまでに完璧な理論体系は他にはない。そして、そこから、資本論は科学的な真理であるという通説が生まれる。

 「商品の価値とは、生産に必要とされる社会的平均労働時間である」このマルクスの労働価値説は、アダム・スミス、リカードなど先駆者の学説を進化させたもので、経済学に一時代を画したばかりではなく、人間社会の見方を一変させた。社会を維持・発展させるために必要なあらゆるものは、勤労大衆が生み出すのであり、人間社会を支配してきた独裁者、封建領主、王侯貴族や資本家などは社会の寄生者に過ぎないことがマルクスにより明らかにされた。さらに、それが真実だとすると、なぜ、社会の主人公であるはずの賃金労働者や農民など勤労大衆が貧しい生活を強いられるのか、誰もが疑問を感じることになるが、それに対してもマルクスは明快な答えを与えた。労働者は労働現場で、自分たちの生活に必要となる必要労働の他に剰余労働を行っており、剰余労働が資本家など支配階級に搾取される。それは原始共産制社会が解体し、階級社会に移行してから一貫した社会の構造だった。封建社会では、剰余労働の搾取が、身分制度とそれを支える思想により正当化されその実体が隠蔽された。貧しい農家に生まれた者は、高貴な身分で生まれながらの支配者である封建領主に奉仕するのが務めであるとされた。その思想は、支配者である封建領主だけではなく、支配される農民、社会のイデオロギー形成に大きな役割を果たした宗教家や学者たちの頭脳をも支配した。農民たちの困窮に心痛め、改革を試みた封建領主や宗教家たちも少なくはなかったが、そのような心優しい者ですら、封建領主や宗教家は高貴な身分で、農民たちはその高貴な者たちに奉仕する存在であるという身分制思想に疑いを持つことはなく、その結果、搾取構造が維持されることになる。

 資本主義に移行するとともに、市民社会が成立して、身分制には何の根拠もないこと、人は自由で平等であるという思想が広がり、封建社会的搾取は廃れていくことになる。その代わりに、自由な市場で成功した者が巨万な富を得ることは搾取ではなく正当な行為であるという思想が支配するようになる。マルクスは、そういう思想を支える社会的なメカニズムを明るみに出した。資本主義社会においては、労働力を含めてあらゆる資源と財が本質的に市場を通じて交換される商品となる。労働価値説により、商品の価値は社会的必要平均労働時間により決まるから、労働力つまり労働者の労働能力は、それを養うために必要となる生活必需品の商品価値(=必要労働時間)で決まることになる。ところが、人間の労働能力は必要労働時間を超えて労働することができる。たとえば、封建時代の農民は家族を養うために必要となる量の農作物だけではなく、それ以上の量の農作物を生産し封建領主に年貢として納めた。このように人類史のごく初期を除いて、人間労働力は常に不労所得者のために剰余労働する力を有するものとして存在する。問題は、なぜ剰余労働が労働者の手にではなく、資本家の手に落ちるのかという点であるが、労働者は通常生産手段を有せず労働力しか売る物がないために正当な対価としては必要労働時間相当(=商品としての労働力の価値)しか得ることができない。その結果必然的に剰余労働は資本家の手に入る。

 こうして、マルクスにより、労働価値説という公理の下、資本主義社会で労働者が搾取され貧しい生活を余儀なくされる理由が明快に説明された。その論理は数学的と言えるほどに厳密で、マルクスの資本論体系は正に社会を対象とした科学の最高峰に位置する。資本論で使用されている数学は、現代経済学と比較すると極めて初歩的な四則演算に限定され、その意味では資本論が過去の理論であることは否めない。しかし、現代経済学が専ら価格や生産量、GDPなどの経済学的指標の量的変動や均衡点だけを扱うのに対して、マルクス資本論は、そもそも社会がどのようにして存在しているのかという壮大かつ根源的な問いに対して明快な答えを与えている。その点で、マルクス資本論は現代経済学を遥かに凌駕する。それゆえ、現代においても、マルクス資本論は依然として社会科学の最高峰に位置する。

 しかしながら、正に、このマルクス資本論が有する科学的体系という外観が、その本質である道徳的選択という側面を隠蔽している。そのことを理解するために、まず労働価値説をみてみよう。それは本当に科学の基礎となる科学的に妥当とみなされるべき公理なのだろうか。19世紀後半ワレラスたちにより開発された限界理論を一瞥すれば分かるとおり、商品の価値を専ら生産に必要な社会的平均労働時間で規定することには無理がある。確かに労働者が生活を維持するために、商品の価格がそこに含まれる労働時間を下回ることはできない。その意味で、労働時間が商品の価値を規定する重要な要件であることは間違いない。しかし、それは商品価値の下限を制約するだけで上限を制約することはない。ほとんど労働が含まれていない多くの商品が多大な収益を得ることは、現代社会においてはごく普通のことになっている。その典型がデジタルコンテンツだ。ダウンロード販売される人気デジタルコンテンツは一つの商品をごく小さな費用で無数に販売すること(莫大な収入を得ること)ができることを示す。労働時間で商品価値が決まるのであれば、デジタルコンテンツの価値は限りなく0に近づくはずだが、実際は有料で売ることができる。しかも人気が高く沢山売れるものほど高い価格を付けることができる。デジタルコンテンツは明らかに労働価値説には限界があることを示す。さらに、第1回でも論じたとおり、労働者は必要労働時間相当の収入に甘んじている訳ではない。民主制が普及すれば労働者は資本家に対して多数派を形成する。政治家が選挙で勝つには資本家の支持よりも労働者の支持を集めた方が有利になる。事実、資本家寄りだとされる自民党や民主党ですら、一般勤労大衆の支持を得ようと躍起になり、財政赤字が膨大であるにも拘わらず、景気対策や少子化対策という名目で、定額給付金や子育て手当てのようにばら撒きを遣っている。労働者が必要労働に甘んじる必然性はない。そして、このことは理論的にも労働価値説の限界を示す。そもそも剰余価値理論の弱点は、必要労働時間がどのように決まるのかという問いに明快な説明がないという点にあった。労働者の政治的な力の強化により、必要労働時間を決めることは現実的には不可能であることが明らかになる。つまり、「労働価値説⇒剰余価値理論」は単に定性的な理論に過ぎず、剰余価値率を決めることはできない。だが、そうだとすると、厳密に量的な規定を示しているマルクスの労働価値説は根拠が乏しいと言わなくてはならない(注)。従って、労働価値説を(自然科学のような客観的な科学という意味での)科学的理論の基礎原理とみなすことには無理がある。
(注)労働価値説、さらには剰余価値理論の萌芽は、アダム・スミスにすでに見られる。しかし、スミスの著作には、労働こそが商品の価値を生み出すという指摘があるだけで、その量的規定は明確には論じられていない。つまり、スミスの労働価値説は定性的なものに留まる。一方マルクスのそれは明快な量的規定を示す。それがマルクスの強みだが、逆に、本稿の議論からも分かる通り、弱みともなる。

 労働価値説を、マルクスは、スミスやリカードにより証明済みの科学的真理だとみなした。労働価値説に関して、マルクス自身は、自分の貢献はその量的規定を明確にしたことだけだと考えている。だが、マルクスが労働価値説を科学的真理だとみなした背景には、マルクスや当時の進歩的思想家たちに共通の思想、「賃金労働者など勤労大衆こそが社会の真の担い手であり、資本家などは不当な利益と権力を得ている。」という改革思想があった。そして、その思想は科学的に証明された科学的真理と言うよりも、民主制や人権思想の普及に伴い生まれてきた新しい道徳的選択だとみるのが正しい。そして、マルクスも同じ道徳的選択をなした。この道徳的選択から生み出されたのが、「労働価値説」であり、また、その必然的な帰結としての「剰余価値理論」であるとみなすことが、マルクス資本論を本当の意味で理解することに繋がるのではないだろうか。

 資本論は、労働価値説を公理とする壮大な科学的体系という外観を呈するが、実際は、マルクスの道徳選択と価値判断に基づく偉大なる社会診断と見るのが正しい。そして、そのように視点を転換することで、マルクス資本論の新しい視界が開かれる。次回では、本稿では推測に留まっている、労働価値説と剰余価値理論がマルクスの道徳的選択と価値判断と不可分の関係にあることをより詳細に議論する。そこで、マルクスが、資本主義体制の条件として、二重の意味での自由な労働者(生産手段から自由=無産階級であること+身分制が廃棄され自由に労働力を処分することができること)の存在、蓄積が進み生産手段が資本の域まで到達していること、この二つと並んで、労働者たちの頭に剰余労働搾取による貧困は自然法則(つまり不可避)であるという思想が植え付けられていることを挙げていることに着目する。封建時代、人々は身分制度とそれを支える思想を自然の摂理であると信じた。マルクスによれば資本主義時代には労働者の貧困はやむを得ない自然法則だと信じられている(注)。社会とは人々の暗黙の価値判断、道徳的選択により方向性が決まる。それゆえ社会に関する学問はその理論展開においても価値判断と切り離すことができない。マルクスはその点を良く理解していたと思われる。ただ、それでもマルクスは自分の資本論体系だけは価値自由な科学として成立しているのだと信じ、他の人々にもそれを信じさせようとした。そして、事実、それに成功した。だが、それでも、マルクス資本論もまた価値判断に基づく体系であることを避けることはできない。それは社会というその研究対象から来る必然なのだ。この点を次回は徹底的に議論することになる。
(注)現代においては、労働者が貧しいのは当り前だと考える者はいないと反論されるかもしれない。しかし、貧富の格差の拡大は深刻な社会問題であると保守主義者も含めて多くの者が語っているにも拘わらず、所得や資産の平等化、あるいは、共産主義思想に基づく私的所有の廃止は、悪平等であり、進化論などの自然の摂理にも反するというのが現代人の共通したドグマとなっている。競争のないところに進歩はないという考えは現代経済学者や政治家や企業家さらには一般国民の共通の信念であり、競争が格差を必然的に生み出すのはやむを得ないこととみなされている。福祉国家論も、また、競争の不可欠性を認めた上でのセーフティーネットとして構想されているものであり、市場競争至上主義の一つの変奏曲とみなすことができる。このように如何なる時代においても、一定の傾向を有する思想群が、あたかも自然の摂理であるかの如く信じられているということに変わりはない。そして、そのことにこそ、自然科学とは全く異質な社会科学特有の性格が現れる。それは、また、社会と自然の決定的な差異をなすものでもある。


(H21/11/16記)


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