☆ 思想の終焉〜レヴィ・ストロース氏の死 ☆

井出 薫

 ラカン、フーコー、アルチュセールと並び構造主義の四天王の一人と呼ばれたレヴィ・ストロース氏が10月30日に亡くなった。享年100歳。ストロース氏の逝去により、60年代末以降世界の思想界を牽引してきた構造主義とそれに引き続くポスト構造主義の隆盛を支えた人物は全て他界したことになる。これは一つの時代の終焉を象徴する出来事と言ってもよいかもしれない。

 四天王の中でも、ストロースは構造主義の先駆者だった。ストロースはその著「野生の思考」で、文明と野生に共通する構造が人々の行動を支配していることを明らかにした。ストロースの仕事は、当時、欧米の、いや世界の思想界で巨大な影響力を行使していたサルトルの、俗に「実存的マルクス主義」などとも呼ばれた思想に大きな打撃を与えることになる。マルクス主義を時代の乗り越え不可能な哲学と捉え、マルクス主義にコミットする方向に実存の決断を促すサルトルの思想は学生運動、労働運動に大きな影響を与えていたが、ストロースの登場で、サルトルが考えるほど物事は簡単ではないことが明らかになる。すでに一時期世界を席巻した共産主義運動は下降線をたどり始め、人々はストロースに触発されて、新しい思考とそれを支える哲学を求めるようになる。四天王の一人で、筋金入りのマルクス主義者であったアルチュセールは自らが構造主義者と呼ばれることを嫌ったものの、その思想がストロース、ストロースの思考方法を精神分析に持ち込んだラカンに大きな影響を受けていたことは隠しようもない。アルチュセール学派が提唱する構造的因果性はストロースなしには存在し得なかった。

 構造主義は、人々の行動や社会の機構の背後に不可視な構造の存在を想定する。そして、サルトルの実存のような自由な決断は存在しないこと、自由に振舞っているように見えても、実はこの不可視の構造に制約されていることを主張する。たとえば、小説とは作家の自由な創造物ではなく、寧ろ作家を捉える力の場が書くことを強いることで生まれるとフーコーは語る。支配するのは不可視な構造であり、自由な主体=自律した個人は幻想に過ぎない。

 しかし、フーコーがすでに構造主義の枠組みから逸脱していたように、構造主義には構造主義そのものを解体する傾向が内在していた。ストロースやアルチュセールの思想は、ある意味で、文学的で情緒的なサルトルの人間主義を科学で置き換えようとするものだったと言える。そして、それは自由な認識主体としての個人という近代の幻想を打ち破った。しかし、同時に、そこにこそ構造主義の弱点が存在した。サルトルは青臭いロマン主義的思想家だったかもしれないが、科学に還元できない人間の在り方を理解していた。人は電子や遺伝子ではない。存在する場で人の活動が一義的あるいは確率論的に決まってしまう訳ではない。ところが構造主義はこの当たり前の事実を上手く掬いあげることができない。さらにストロースが提唱した「構造」という概念は元を辿れば、フランスの数学者集団ブルバキが創設した数学モデルを借用したものであり、基本的に無時間的・静的なものに留まる。その結果、構造主義は一回限りで有限の時間を生きる人間存在を捉え損ね、また時間的な変化、カオス的な予測不可能・制御不可能な歴史的・社会的変化を捉えることにも失敗する。つまり、構造主義は文学としては失格で、科学としては不徹底であることが露呈する。特に、構造主義は、構造を常に解体しさらには一新していく力を把握することができないと批判された。それゆえ、構造主義が、構造を解体し新生する力を重視するポスト構造主義へと変容していくことは必然的な事の成り行きだったと言わなくてはならない。

 しかし、ポスト構造主義に移行することで、構造主義の欠陥が克服された訳ではない。ポスト構造主義の代表者、デリダ、ドゥルーズ、ガタリたちは、構造から力への転換を図ったが、結局、科学になることもできず、文学になることもできず、最終的には科学的厳密性を放棄し、ときには似非科学的な論証を振り回し、ときにはシニカルな態度と意味不明な言明で人を煙に巻き悦に入るという姿勢に陥り、やがて一部の熱狂的な支持者や彼らに好意的な専門家やジャーナリストを除いて、人々からソッポを向かれるようになる。事実、彼らの著作を本当によく理解している読者が居るのか疑わしいと誰もが思っている。いや読者だけではなく、書き手の側すら自分の意図と論理を理解していないのではないかという疑いすら生じていた。

 こうして、構造主義とポスト構造主義の時代は終わった。もちろん後世に残る業績がなかったわけではない。レヴィ・ストロースの文化人類学は多くの欠点を有するとは言え、文化人類学に大きな足跡を残した。構造主義とポスト構造主義は、デカルト以来の近代の伝統であった認識論的主体主義を解体し、それは今では構造主義やポスト構造主義を知らぬ者にとってすら常識となっている。しかし、構造主義もポスト構造主義も、結局のところ、マルクス、ニーチェ、フロイト、ソシュールという先駆者のリメイクに過ぎないと言われても致し方ない。それはフッサールやハイデガーというスパイスを利かせているが中身は同じ、いや、寧ろ軽佻浮薄で迫力を欠くものに堕している。個人は近代の産物だと言ったのはマルクスであり、フーコーの「人間は死んだ」は言うまでもなく、ニーチェの「神は死んだ」のパクリだ。結局、本当にオリジナルな思想はそこにはなく、精々のところ、問題を明確にしたに過ぎない。

 それでは、この先はどうなるのだろう。そこに見えるものは「思想の終焉」とでも言うべき情景だと思われる。そこには、厳密で強力だがロマンに欠ける個別科学と、深さと広さに欠けるがその一方でエンターテイメントに徹し読者や視聴者を瞬間的に喜ばせる細工が散りばめられた小説や音楽が支配する社会が見えてくる。思想はないが知識と機械があり、偉大な芸術はないが娯楽には事欠かない、そういう社会へと私たちは向かっている。それは別に嘆かわしいことではない。原始時代、人間は思想などに囚われることはなく自由だった。もちろんそこでは自然的な制約やそれに基づく共同体の厳しい掟などが人々を支配していた。だが頭の中を思想が支配するなどということはなく、人は感覚の思うままにある意味自由に生きることが出来た。ところが、文明が人を思想に拘束させる。その伝統は現代まで続いている。しかしそれが構造主義とポスト構造主義の失墜を通じて終焉する時が近づいている。

 もちろん、これは単なる空想に過ぎない。思想は強力で人を縛り続けるかもしれないし、思想を失うことで人は衰退の道を辿ることになるかもしれない。だが、今、人間の歴史が転換期を迎えようとしていることは間違いない。そのことの意味を私たちは最後の思想として思考するべきなのだ。

 最後に、20世紀後半の最も偉大なる思想家の一人であった文化人類学者レヴィ・ストロースの功績を称え、その冥福を祈って本稿を終わることにする。


(H21/11/5記)


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