☆ 実存とは何か ☆

井出 薫

 生命の本質は何か。自己複製、代謝、変異と適応、その中でも自己複製が本質をなす。これが生物学的な模範回答だろう。しかし、生命の本質とは、その唯一性にある。

 私はこの世界で唯一無二の存在で、他者とは絶対に異なる。他者も同様に唯一無二の存在として生きている。私は他者にはなれないし、他者も私にはなれない。この性質は人間だけではない。犬や猫、庭にやってくる鳥や虫たちも、同じ種でも、それぞれの個体は唯一無二の存在で、他の個体とは必ずどこかが違う。細菌や原生生物のような微生物でも、同じ種でも必ずどこかに差異があり、同一者は存在しない。微生物でもそこに存在するのは唯一無二の個体の集団なのだ。

 無生物には唯一無二性はない。同一機種のパソコンは全て同じで個性はない。長く使っていると愛着が湧いてきて、壊れて同一機種に買い替えてもどこかしっくりこないところがある。だがそれも数日のことですぐに新しいパソコンに慣れて前と同じようにそれを使いこなすことになる。富士山は勿論唯一無二だが、それは世界に富士山と同じ山がないということに過ぎない。もちろん全く同じ形の山がアメリカに在っても、それを富士山と呼ぶ気にはならない。しかし、それは山なる存在が周囲の環境と切り離すことが出来ないからだ。そもそも富士山はどこからが富士山なのだろう。ここからが富士山だと地面に境界線を引くことは出来ない。引いたところで恣意的なものでしかない。富士山は周囲の環境と共存しており、そして共存していることで富士山となる。だから、地球が宇宙に二つ存在しない限り、富士山が二つあることはない。つまり富士山の唯一無二性は、同じ物が他に存在しないということを意味しているに過ぎない。ところが、生命体は同じ種が存在しているのに、各個体が唯一無二の存在としてこの世に現れている。そこに生物が持つ、そして生物以外は持ちえない本質的な唯一無二性がある。

 この生命固有の唯一無二性こそが、(実存主義的な意味での)実存という概念の基盤となる。しかしながら微生物は確かに生命としての唯一無二性を有するのではあるが、微生物自身がそのことを自己認識することはない。それゆえ微生物の唯一無二性は単に外的な性質に留まる(注)。それゆえ微生物の個体は実存という概念で語ることはできない。唯一無二性が内的なものとなるとき初めて、その存在は実存となる。では、犬や猫はどうだろうか。犬や猫は自分の唯一無二性を認識している可能性がある。しかし彼らはそれを言葉で表現することができない。そして言葉で表現することが出来ないが故に、それを体系化して自らの生を意味づけることに役立たせることはできない。それゆえ、犬や猫、その他の哺乳類は実存に接近しているとは言え、いまだ唯一無二性が内在化されておらず、実存とは言えない。ただ人間だけが、自分の唯一無二性を明確に認識し、それを芸術や哲学において言葉を使い表現することを通じて、(この地球上で)唯一の実存として現れる。
(注)ここで「外的」という言葉は、外部からの観察者(つまり人間)にとってのみ意味を持つということを表現する。一方「内的」とは対象となる存在者にとって意味を持つということを指示する。私は私の唯一無二性を意識しており、それゆえ「唯一無二性」は内的な性質となる。

 晩年のハイデガーはこのような実存の説明を人間中心主義(ヒューマニズム)として批判し、ポストモダニズムは総じてハイデガーの批判を継承している。しかし、それでも、人間の持つ実存的な性格を否定することはできない。そして、そのことを通じて、人間は他のあらゆる存在から区別される。

 このことは、人間の優位性や特権を示すものではなく、況や人間が自然や他の生物種を侵害することを正当化するものではない。ただ、それが人間という存在の特異性を示していることだけは間違いない。人間に限らず、あらゆる生物には様々な苦痛がある。しかし人間的な苦悩を共有する存在は他にはいない。そして実存こそがその人間の特異性を説明する。哲学の学派としての実存主義は今では過去のものとなっている。しかし、実存という概念とそれに関する真摯な思索が意義を失うことはない。


(補足)
 人間的な苦悩とは、まさに自分の唯一無二性を認識することのうちに在る。私は私以外の何物にもなれないという事実が私を苦しめる。そして、そこから人の変身願望が生まれる。私は変身することで、私以外の存在へと生まれ変わることができるように感じる。それは勿論幻想に過ぎないのであるが、この願望があらゆる芸術の根底にあると言ってもよい。カフカの「変身」は悪夢であるが、それでもカフカの願望を表現しているのかもしれない。

(H21/10/10記)


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