☆ 資本論と未来(その2) ☆

井出 薫

 ⇒『資本論と未来(その1)』

 労働価値説に議論を移す前に少し寄り道をしてみよう。100万円の株を購入して110万で売り10万円の利益を得て、その金で2kgの極上の牛肉を購入したとしよう。牛を飼育し食品とすることに私は何の寄与もしていない。それなのに、なぜ、私は2kgの牛肉を購入することができるのだろうか。

 マルクスはこう説明する。2kgの牛肉を飼育し食品にした労働者は10万円に相当する労働をした。それにも拘わらず5万円しか受け取ることができない。労働者を使用した資本家は差額の5万円を利潤として獲得(=搾取)し、私は株の売却益という不労所得で2kgの極上牛肉を手にする。だが、これだけでは私が得た不労所得10万円の説明がつかない。実はここで私が最初に株購入を通じて100万投資したことを思い出す必要がある。株購入を通じて私は牛肉製造業の資本家に(直接的あるいは間接的に)100万円の出資をしたことになる。ここで牛肉の製造には労働者の労働以外には何も必要ない(つまり飼料や機械や道具など一切不要)、かつ1名の労働者で2kgの牛肉を製造することができると仮定しよう。−これは勿論非現実な仮定だが、飼料や機械の購入費、土地の使用料などの諸経費を考慮に入れた現実的なモデルでも、議論が複雑になるだけで結論は同じになる。−資本家は100万円で20名の労働者を雇い入れ(5万/名x20名=100万円)、40kgの牛肉を製造し20kgx10万円/kg=200万円で販売する。つまり100万円を借り入れて100万円の利得(マルクスの用語を使えば剰余価値)を得たことになる。資本家は私に、その利得100万円の中から、投資してもらった100万円に10万円を追加して110万円を返す。その結果私は不労所得の10万円を得て、資本家は利潤90万円を手にすることになる。つまり100万円の元手で資本家は労働者20名に200万円相当の労働をさせ、それにも拘わらず100万円しか労賃を支払わない。その結果、投資家である私は10万円、資本家は90万円を手にすることになる。いずれにしろ、資本家と私が手にする合計100万円は労働者からの搾取によるものであることは間違いない。
(注)ここで私は10万円で牛肉を購入したから資本家は丸々100万の利潤を得たのではないかと思えるかもしれないが、まさしくそのうちの10万円を投資家である私に支払っているから資本家の利潤は90万円になる。それは私が牛肉ではなく10万円のワインを購入したとすれば容易に分かる。その場合、資本家は私以外の者に200万円で牛肉を売り100万円の利得を得て、その中から10万円を私に譲渡することになるから、利潤は90万円に減少する。資本家が誰から資金を得て誰に商品を売ろうと関係ないから、資本家の利潤はあくまでも90万円となる。

 一方、資本主義を擁護する経済学者たちはこう説明する。私は株式の購入を通じて経済活動に貢献する。私はその資金がどのように使われるか顧慮しない。だが、その資金により生産活動が促進され牛肉40kgという富が生まれるのは紛れもない事実であり、10万円の譲渡益を得るのは社会貢献の当然の帰結と言える。同じように資本家の利潤も正当化される。資本家は労働者を雇用することで社会の富を増進し、労働者の生活の糧を与える有益な役割を果たしているから、報酬として90万円の利潤を得ることは正当化される。

 どちらの見方が正しいのだろうか。私はマルクスの主張が正しいと考える。但し、それはマルクスやかつてのマルクス主義者たちが考えていたような経済学的な真理ではない。それは道徳的な真理なのだ。

 牛の飼育・牛肉製造現場での労働者たちの労働は社会を維持するために不可欠な社会的活動であるが、資本家や投資家の活動は資本主義という社会体制においてのみ必要なものに過ぎず社会を維持するために不可欠なものではない。つまり投資家や資本家の所得は資本主義特有のものであり、体制を超えて必然的に発生するものではない。だから、そのような所得は搾取による所得=不労所得と捉える方が妥当と言える。

 だが、これはあくまでも経済学的な考察の帰結ではなく、道徳的な考察の帰結と捉える必要がある。なぜなら、資本主義は古代奴隷制、農奴制などのそれに先立つ社会体制より経済的に進んだ社会システムであり、同時に民主制や人権思想、平和思想を育む土壌になったという意味で政治的あるいは法的にも勝っている。マルクスやマルクス主義者は資本主義を超える社会システムとして、経済的にも資本主義を凌ぐ富を生み出す高度に発展した共産主義社会を構想したが、20世紀の歴史は、ソ連・東欧の共産主義体制の崩壊、中国の資本主義的手法(市場競争)の導入による目覚ましい経済的発展という現実を通じて、未だ人類は資本主義を超える社会体制を構想することすら出来ていないことを示した。だとすると、経済学的な観点からすれば、資本家や投資家は搾取をしているというよりは、社会にとって有益な活動をしていることになる。なぜなら、それは資本主義を維持するために不可欠な活動だからだ。つまり経済学的な観点からは、マルクスよりも資本主義を擁護する経済学者の方が正しいと言わなくてはならない。

 では何故経済学的観点より道徳的な観点を重視してマルクスを支持する必要があるのか。この問題を解くには、まずマルクスの説明の優位性を道徳的真理ではなく経済学的真理だとする伝統的なマルクス主義が必然的に「労働価値説」という立場に繋がっていくことを理解する必要がある。つまり前回宿題として残した「労働価値説」の問題は、実は道徳的観点を抜きには語ることができないことになる。だからこそ労働価値説を論じる前に回り道をする必要があった。そこで次回では、いよいよマルクスの資本論全体系の大前提である「労働価値説」を論じることにする。


(補足)
 昨今、巷に溢れている平易なマルクス「資本論」の解説書の類は、大体において、無意識のうちにマルクスの説明を経済学的・科学的真理だという立場を一貫して採用している。しかし、このような立場では、一時的には読者を惹き付けることができるかもしれないが、いずれはマルクスの限界に読者は気づき失望することになる。

(H21/9/20記)


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