☆ 言葉の意味と寛容の精神 ☆

井出 薫

 「1」は単独では意味を持たない。自然数1、2、3・・・の最初の数、1+1=2、1+2=3、3−2=1・・などなど、様々な数学的定式化の中で初めてその意味が決まる。「1」と「2」の役割を変えて、「1」が意味するものを「2」で表現することもできる。

 これは数学に限ったことではない。普通の言葉も単独では意味を持たない。「私」、「この」「机」、「しかし」、「である」など全ての言葉は、文脈や言葉の使用方法などを通じて初めて意味が定まる。「意味などというものは存在しない。ただ使用の手続きがあるだけだ。」という哲学的立場があるが、強ち間違いだとは言えない。

 しかし、それにも拘わらず、人は言葉それ自体に固有な意味があると思いがちだ。歴史を遡ると洋の東西を問わず言霊信仰が見出される。今でも、ホラー映画などでは、霊能力者が呪文を唱えると魔物が倒されるなどという場面を良く見掛ける。観客がそれを現実と混同することはないとは言え、言葉には固有の力=意味があると思っている者は多い。だからこそ霊能力者が呪文を唱える場面に感情移入することができる。

 どうして人は言葉にはそれぞれ固有の意味があると思い込むのだろう。それは脳に秘密がある。脳には言葉や記号を理解し記憶する能力が生まれながらに備わっている。しかし、それは数学体系のように精密でもなければ、自然言語のように質的・量的に無限の広がりを持つわけでもない。それゆえ、脳は限られた体験をもとに厳密とは言い難い帰納的な遣り方で言葉の使用規則を定める。その結果、言葉を取り巻く環境は忘却され、人は、言葉には予め固有の意味が備わっていると思い込む。しかも、このような思い込みは実用的な意義がある。脳は、コンピュータのように正確でも高速でもない。だから、数学体系や言葉の使用規則を一々参照しながら、計算や会話や読書をすることはできない。言葉には予め決まった意味があると思い込むことで、こういう煩わしい手続きを避けることができる。もし、そういう(ある意味で)いい加減さが脳に備わっていなければ、計算も会話も読書も不可能になる。

 しかし、それ故、けっして忘れてはならないことが一つある。言葉の意味は、使用規則と文脈で初めて決まる。それにも拘わらず人は言葉には予め固有の意味があると思い込んでいる。だから必然的に、自分と他人との間には言葉の意味を巡って齟齬が生じ、時には係争に発展する。民族や宗教、社会階層の違いなど、属する共同体が異なる場合、この齟齬は極めて深刻な事態を引き起こす。ときには、互いに正義を掲げて残酷な殺し合いをする事態に陥ることすらある。それゆえ、高度で多様な言葉を使う動物である人間には、何よりも「寛容」が大切になる。洋の東西を問わず、古の賢人や偉大なる世界宗教の開祖たちが人々に説いたのが、まさしく「寛容」の精神だった。これは寛容であることが如何に大切であるかを示すと同時に、「寛容」であることが如何に難しいかを示す。言葉の意味の考察を終えるに当たって、このことを肝に銘じておきたい。


(H21/9/14記)


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