☆ 哲学的考察について〜原点としての「考える」こと〜 ☆

井出 薫

 「考える」、このことは極めて簡単に思える。誰もが考えるし、自分が考えていることに気が付いている。デカルトが、「コギト・エルゴ・スム((我)考える、ゆえに、(我)在る)」を哲学の第一原理に据えたのも、この「考える」ことの自明性に基づく。

 それにも拘わらず、「「考える」とはそもそもどういうことか」と問われると簡単に答えることはできない。フッサールが現象学を展開し、「考えること」を精密に考察して諸学の基礎の再構築を試みたことは、それを示している。自然科学は主観に依存しない客観的な真理を探究すると言っても、それも、又、人間の認識活動の成果である以上、「考える」という営みを通じたものであるしかない。だとすると、「考える」ことの本質をしっかりと把握しない限り、諸学の基礎は不在のままだというフッサールの主張も理解できる。
(注)但し、フッサールの試みは成功していないし、「考える」ことの本質を見極めることなしには、諸学の基礎は確立できないという考えは正しくない。如何なる認識も自然と社会的諸環境においてモデル・道具を介したモデル・道具の生成であり、それは共同体的なものであり私的なものではない。それゆえ諸学の基礎に「考える」ことを据えるわけにはいかない。

 「考える」という出来事は、私たちが基本的に「倫理的存在」であることを示唆する。「コンピュータは考えるか?」という問いに、私たちの直観はそれを否定する。コンピュータは内蔵されたプログラム(=アルゴリズムの表現)に従って機械的に動作しているだけで、そこには決断も迷いもない、後悔もない。人だけが、決断し、迷い、後悔する。なぜなら、決断も、迷いも、根源的に不確実な状況に置かれた者だけが遭遇する出来事だからだ。コンピュータも情報が不足し、正確な答えを与えることができない場合はある。しかし、コンピュータはそういう状況への対処法が事前にアルゴリズムにより決定されており、「回答不可能」などという冷めた答えを返すか、さもなければ暴走して無限ループに陥るか、いずれにしろ、迷いも後悔もない。

 私たちは、決断も、迷いも、後悔もしない者が「考える」とは感じない。解くことが出来ない問題や不確実な状況にどう対処するべきか苦慮し、ときには自分の判断を後悔し反省する時にこそ、「考える」ことの本質が現れる。すらすらと問題が解けるときには、人は自動機械とほとんど変わることはなく、解きながら別のことを頭に思い浮かべることすらできる。解くことが出来ずに苦悩し迷う時、私たちはそれを「考える」と言う。

 このように、「考える」という行為は、不確実な状況において、自己責任で決定するという性格を帯びていることになる。それゆえ、「考える」とは、本質的に、単純な論理計算ではなく、誤りの可能性に配慮しながらも、それにも拘わらず結果責任を負わなくてはならないという甚だ困難な状況における倫理的決断であることが明らかになる。

 「考える存在である」ということは人間が倫理的存在であることを示す。哲学はこの人間存在について(ときには不毛と思えるような)考察を続ける。答えはない。しかしながら、決断と迷い、後悔、さらにはそれに必然的に伴う不安と歓喜という人間存在の本質的様態が、哲学的考察において、(偉大な文学を除いて)他にはないほどまでに見事に表現されるという事実を軽視してはならない。


(H21/8/19記)


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