☆ 共鳴するもの ☆

井出 薫

 作家ではカフカが一番好きだ。その中でも「審判」は文学史上1,2を争う傑作だと思っている。理由の分からない突然の逮捕、そして無意味としか言いようのない唐突な死、この未完の著作には得体のしれない恐怖と何人も逃れられない魅力がある。

 しかし、こんなことを言うと「僕にはどこが良いのかちっとも分からない。」と怪訝な顔をされることが多い。カフカのような作家は好みがはっきり分かれる。私は好みが分かれるような作家が好きになる傾向がある。映像作家ではタルコフスキーの大ファンだが、こちらも「タルコフスキーのどこが面白い。お前、本当に分かっているのか。」と疑いの目で見られる。

 作家との相性は読者が求めているもので決まる。カフカやタルコフスキーのような作家を好む者は何を求めているのだろう。一見、ロマンや非日常的世界だと思われるかもしれないが、違う。むしろ嫌になるくらいのリアリズムだ。だからこそ好みが分かれる。リアルな世界ほど好き嫌いがはっきりしているものはないからだ。

 「変身」に登場する巨大な虫に変身したザムザ、突然理由もなく逮捕されたヨーゼフ・K、「城」に登場する到達できない城、その無意味さに読者は困惑する。芸術にロマンや非日常的世界を求める者は、理解不能、癒し楽しませてくれるものはそこにはないと落胆して読むことを止める。しかし、芸術にリアリティを求める者は最高のリアリズムが隠されていることに気付く。何故か?それは現実が空想よりもはるかに多義的だからだ。虫への変身、理由なき逮捕と死、そこには無数の解釈が生まれる。どれも正解で、どれも不正解、カフカやタルコフスキーはそういう状況を設定する。その世界は、まさしく現実そのものを婉曲的に表現している。

 では、芸術にリアリティを求める者はリアリストなのだろうか。逆だ。ロマンティスト、理想主義者だからリアルなものに憧れる。同じように作家もロマン主義、理想主義者ほどリアルなものを書く。送り手も受け手も芸術という場においては常に他者を求める。他者との出会いの中で自己を異化し、同時に他者を同化する。芸術とはそういう営みとして存在する。だから互いに引き合う作家と読者は同じ平面にある。作品という媒介者を通じて同じ平面にある者が共鳴するのが芸術だと言ってもよい。

 しかしカフカやタルコフスキーと自分が同じ平面にあると考えると気が滅入る。自分はもっと明るい普通の人間だと思いたい。だが、そのことこそ「審判」を通じて私とカフカが共鳴している証拠なのだ。


(H21/6/7記)


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