☆ 認識の構造 ☆

井出 薫

 考え事をしながら歩いていて、こちらにやってくる友人に気が付かない。「こらっ、何、無視している」と冗談交じりに声を掛けられ、肩を叩かれて初めて気が付く。友人を待っている、遠くから歩いてくる友人にすぐ気付く。視界に映じるものは同じでも、私の在り方で知覚が異なってくる。

 これはどんなメカニズムによるものだろう。二つの答えが思い浮かぶ。一つは、視覚細胞には外部から同じ刺激が与えられているのだから、視覚細胞からの出力は同じで、それが脳の高次の認知機能により異なった解釈がなされるという考え、もう一つは、脳の状態により視覚細胞の状態と出力が変わってくるという考えだ。

 結論が得られたわけではないが、最近の研究は後者が正しいことを示唆している。つまり感覚器官は脳の状態に依存して状態が変わる。これはカント哲学の理性批判が基本的に正しい方向を示していたことを教えてくれる。カントは人間の認識能力を感性、悟性、理性の3領域に分け、感性を認識の出発点と位置づけた上で、感性の働きは悟性に制御されると説いた。これはまさに最近の研究が示唆するところに合致する。逆に、この研究結果は感覚器官が外界の刺激を受け取り、その出力が脳の高次機能の領域で処理され外界が認知されるという反映説が正しくないことを示している。

 友人の認知と科学的発見のような高度な認識とは異なる。しかし科学的発見も普通の認知と同様に感覚の働きなしには成立しない。視覚に捉えられる実験データ、グラフ、数式、原稿などがなければ、人は高度な学的認識をなしえない。科学的認識と言えど、感性(又は認知という視点で捉えれば感覚)の存在下で初めて成立するという点で友人に気付くのと変わりはない。

 コンピュータの入出力装置もCPUに制御されて状態が変わる。その意味でコンピュータの動作は人間の認識活動に類似する。おそらくアルゴリズムという次元で捉える限りは両者に差はない。だが、考え事に没頭して友に気付かない私、ところが声を掛けられ肩を叩かれればすぐに友に気付く私、こういう私の認識構造はコンピュータの制御機構とは大きな違いがある。なぜなら、そこにはコンピュータの完璧な論理的合理性が欠けているからだ。しかもその一方でソフトウエアが故障したコンピュータのように合理性を完全に喪失することもない。

 しかしながら、両者の差を明確に説明することはできない。もし説明できれば、両者の差分をコンピュータに新しいアルゴリズムとして追加することで、人間と同一の機能を有するコンピュータを生み出すことができる。だがそれはどうやっても不可能に思える。ただ「なぜ、そう思うのか」と問われれば、「理由は説明できないが、そう思う」と答えるしかない。正に、ここにこそ人間の不可解な認識構造が現れている。


(H21/5/17記)


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