☆ なぜ「なぜ?」と問う ☆

井出 薫

 人は、なぜ「なぜ?」と問うのだろう。この問題を考えるに当たって三つのことに注意する必要がある。

 「なぜ」という問いには様々な種類がある。

 「なぜ月は地球の周りをまわっているのか」、「回転している独楽はなぜ倒れないのか」このような問いには、自然法則で答えることができる。経済や政治については自然法則のような頼りになる原理はないが、それでも一般的な傾向や人間行動を暗黙に支配している規則や制度を用いて大体において適切な説明ができる。問題が明確で一般的な性格を持つものであれば、物理的メカニズムや規則、制度などを用いて説明することで人々は大体において納得する。
(注)以前、私は自然科学を説明の学、社会科学を説得の学として区別したが、ここで論じている問題では、両者の違いは大した意味はない。それゆえ本稿では両者を区別して論じることはしない。

 これに対して「なぜ会社に行くのですか」と問われた者の答えは全く違う性格を持つ。「お金を稼ぐため」、「仕事が好きだから」、「家にいると邪魔だと言われるから」など様々な答えが用意されるが、いずれも、法則や規則、制度で説明されるものではない。この「なぜ」は行為の意味を、あるいは正当性を問うものであり、答えもそれに応じたものとなる。勿論、一般的な法則や規則や制度に訴えることができないわけではない。日本国憲法により、勤労は国民の権利であり義務であるから会社に働きに行くのだと答えることはできる。しかし会社に行かなくても働くことはできるし、現代の日本では働いていないことを理由に罰せられることはなく、お金があれば働かなくても生活できる。お金がなければ借金をして食い繋ぐこともできる。それゆえ、法則、規則、制度などを参照しても答えにはならない。質問する側も、答える側も、そのような一般論では回答にならないことが分かっている。

 さらに別の「なぜ」がある。愛する者と死に別れた者が「なぜ、私がこんなに不幸な目に会わなくてはならないのか」と嘆く時、この「なぜ」には先の二つの「なぜ」とは全く異なる意味がある。嘆きの原因となっている出来事は法則、規則、制度などを参照して説明することができるが、ここで「なぜ」という言葉が意味し、そして「なぜ」と問う者が求めているのはそのようなものではない。これは一回限りの生を送り、過去を変えることができない者、いわゆる実存としての人間が発する生への切実な問い掛けであり、学問的な説明では答えにならない。かと言って、この「なぜ」は、2番目の「なぜ」のように行為の正当性や意味を問うものでもない。

 「なぜ」という問いが3種類に尽きるのか、それとも別の種類があるのかという問題が残っているが、本稿ではこれ以上議論はしない。しかし、「なぜ」という問いが様々な顔を持つことはこれで十分明らかになった。

 「なぜ」という問いは、人間の有限性に起因して生じる。物理学を知らない者は、「なぜ月は地球の周りを回るのか」、「なぜ回転している独楽は倒れないのか」と問う。宇宙がどのようにして誕生したのか誰も知らないから、物理学者や天文学者さらには全ての人間が「なぜ、宇宙は誕生したのか」、「なぜ宇宙は今あるような姿をしているのか」と問う。会社に行く理由は、質問する人間も、実は答える人間も良く分かっていないからこそ、問いが生じる。三番目の種類の問いも、全てを知ることができない人間固有の問いだと言ってよい。愛する者と別れることが予め分かっていればこのような問いは発せられない。全知全能の神であれば、過去・現代・未来はその根拠ともども熟知している。それゆえ神には「なぜ」という問いはない。人間が有限だからこそ「なぜ」という問いが生じる。

 地球では、おそらく人間だけが「なぜ」と問う。他の動物、犬、猫、猿、豚、牛、海豚、鯨などは、全て有限な存在で、様々な未知との出会いがあり、行動の選択の機会がある。この点では人間と変わるところはない。ところが人間以外の動物は「なぜ」とは問わない。なぜだろう。「なぜ」という言葉を知らないから、あるいは使うことができないから、これが一つの答えだ。しかし、これは正しい答えだろうか。病気などで言葉を使うことができない者には、「なぜ」という問いは無縁なのだろうか。なるほど、彼あるいは彼女は「なぜ」と問い掛けることはない。しかし「なぜ」と問い掛ける仕草をすることがあるし、こちらから「なぜ」と問い掛けたときに、その問いに答えようとすることもある。これは他の動物でも同じだという意見もあるかもしれないが、幾ら知能が高くとも類人猿や海豚に「なぜ」という問いがあるとは思えない。あるいは、類人猿、海豚、猿、犬、猫などに「なぜ」という問いを帰属させたとしても、蛇や蛙に「なぜ」を帰属させることは無理だ。「なぜ」と問い、それに答えるのは人間固有の在り方と言ってよい。しかし、その理由は「なぜ」という言葉を使うからそうなのだとは言えない。

 「なぜ」という問いは、個人にとっても、人類全体にとっても、おそらく最初に発せられる問いだ。「なぜ」は多彩な顔を持ち、人間の有限性に根差し、なおかつ無数の生物種の中で人間という種だけに宿った。そこでは確かに言葉の存在は大きい。しかし「なぜ」という問いを言葉に還元することはできない。「なぜ」という問いは全ての思索する者の最大の謎であり、あらゆる学の始まりでもある。「なぜ」とは何か、「なぜ」となぜ問うのか、この一見全く無意味に思える問いこそ、最も根源的な問いとなっている。


(H21/5/10記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.