☆ 地動説の意義 ☆

井出 薫

 地球が宇宙の中心とする天動説は間違っており、地動説が正しいというのが現代人の常識だが本当にそうだろうか。それが正しいとしたら、どういう意味で正しいのだろうか。

 物体の運動は座標上の軌跡として表現される。座標の原点をどこに置こうと構わない。だとすると、地球を座標の原点におき(本稿ではこれを地球座標と表する)、惑星、太陽、恒星、銀河の運動を地球座標で表現することができ、天体に働く力を研究し法則を発見することもできる。だとすると、地動説が正しく天動説は間違っていると考えるのは誤解で、実用的な観点から地動説に軍配が上がるに過ぎないということになる。

 しかし本当に私たちの常識は間違っており、天動説は使い勝手が悪いというだけのことなのだろうか。そうではない。いかなる理論もそれが孤立して存在するときには何の意味も持たない。他の理論や観察や実験データとの関係、さらには広く社会思想との関わりにおいて初めて理論の意味が定まる。天動説は、地球が世界の中心で天上とともに最も重要かつ高貴な場所であり、人類は神から特別に選ばれた存在であるという思想を背景として現れる。そして天動説はその思想的背景を強化する。このような思想が支配している環境では、近代科学の中心的な道具の一つであるデカルト座標、均一で任意の位置を座標の原点と定めることができる数学的座標を導入することはできない。なぜなら地球と天上世界は特別な場所であり、その間を運行する惑星や恒星は地球とも天上世界とも絶対的にその存在意義が異なるからだ。このような思想の下では、デカルト座標などという発想は意味をなさない。その一方で天動説は世界に価値論的秩序体系を与える。そこから必然的に諸物体の運動は目的論的に説明され、ガリレオ・ニュートン流の機械的因果的説明が入り込む余地はない。

 天動説を人々が信奉する限り、近代科学は誕生しえない。天動説から地動説への転換は、単なる座標変換ではなく、社会全体の思想的大転換だった。天動説を誤った思想として拒否し地動説の正しさを高らかに宣言することで、人々は同時に価値論的世界から脱却して物理世界へと入場する。そこで初めてデカルト座標という近代思想の枠組みが確立され近代科学の誕生を促す。

 同じことは150年前のダーウィンの進化論にも当てはまる。進化論にはトートロジーに過ぎないという批判がある(「生き残るのは誰か?」→「適者だ」、「では適者とは何か?」→「生き残った者だ」)。確かにその理論を19世紀半ばから現代に至る時代背景と切り離して考えると、そういう批判も成り立たないではない。だがダーウィン進化論の登場で初めて、全ての生物が同じ物質的な基盤の上に立つという現代生物学、現代人の常識的生命観が確立された。これはまさしく地動説と同じ根源的な思想の転換だと言わなくてはならない。

 偉大な科学理論は全て、社会全体にまたがる思想の大転換との連関において考察する必要がある。地動説が正しく天動説が間違っているという主張は便宜的な選択ではなく、根源的な思想的意義を持っている。そして、この事実こそ、科学史と思想史を研究する意義が何かを説明する。思想の大転換は頭の中だけでは生まれない。生活圏の拡大、異文化との交流、交易の拡大、産業の発展、技術進歩とその普及などが思想の大転換を準備する。こうした現実的な土台の変化を通じて初めて思想的な大転換が遂行される。それゆえ、その研究はおのずから歴史の基礎を解明する試みに繋がることになる。


(H21/4/24記)


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