☆ 規則に違反するとはどういうことか ☆

井出 薫

 自然法則に逆らうことはできない。ただ利用することができるだけだ。浮力となるものがなければ人は高層ビルの屋上から飛び降りたら地面に叩きつけられてしまう。一方、規則は違反することができる。赤信号を無視して自動車の運転を続けたり横断したりすることができる。

 自然を特徴づけるのは違反が不可能な自然法則で、社会を特徴づけるのは違反可能な規則だ。自然法則と社会的な規則の違いこそが自然と社会を分かつものだと言ってもよい。だがここで「規則に違反する」とはどういうことかが問題となる。考え事をしながら歩いていてそれと気が付かないままに赤信号で横断しても不注意を叱責されるだけで罪に問われることはない。通常「規則に違反する」とは「意図的」に規則に違反することを意味する。不注意で規則に反した行動をとっても、本来の意味での規則違反には該当しない。だからこそ周囲の者は彼(女)を注意するが罰することはない。心神喪失者が罰せられないのも同じ理由による。心神喪失者は社会通念である善悪の規則を理解していないか、理解してもそれに従って行動する能力を喪失している。つまり意図的に社会の規則に反した行動をとっている訳ではない。だから彼(女)にその行為の責任を帰属させることはできない。規則違反を規則違反とするもの、つまり規則を自然法則とは違う社会固有の存在とするものは、意図的な行為ということになる。

 しかし、これで問題が解決された訳ではない。「意図」あるいは「意図的であること」が何を意味しているのかをはっきりさせないと、規則に違反することの意味は確定しない。意図なるものは幻想にすぎず、人間の行動を含めて全てはただ物理法則に従っているだけだ、という考えがある。そのような観点に立つと、規則に意図的に反することと、不注意あるいは不可抗力で規則に反する行動をとることとの間に違いはなくなる。どちらも物理的必然に従っているだけだからだ。だがこのような考えは社会を支配する法の在り方と矛盾する。法的判断においては意図的であるかどうかは決定的な意味を持ち、しばしば法廷においてもその点が争点となる。

 一方、意図的な行為か、不注意あるいは不可抗力によるものか、それはただ本人だけが知っていることで、周囲はただ本人の証言と事件に関連した証拠から間接的に判断することができるだけだ、という考えがある。だとすると「意図」あるいは「意図的であること」の基準は個人の内部にあることになる。確かに私は自分の行動が意図的なものか、不注意によるものか、不可抗力かを知っている。しかしなぜ私はそれを知ることができるのだろう。この問いに答えることは難しい。ウィトゲンシュタインの考えを参照して、それを「観察によらない知識」と呼ぶことがあるが、このように語ったところで、意図的であることの意味が解明されるわけではない。さらに人は意図的と不注意あるいは不可抗力の違いを生まれたときから知っている訳ではない。社会の中で周囲の者からその違いを教わって初めて両者を区別することができるようになる。つまり私は自分の行動が意図的などうかを知っていると思っていても、その判断基準は社会的な基準を自分に取り込んだものでしかない。その意味では「意図的かどうか」を決めるのは個人ではなく社会と言わなくてはならない。そもそも「意図的であること」の基準が専ら私的なものであるとしたら、私たちは社会的なコンセンサスにおいて「意図的な行動」を判断することはできない。私と他人とが同じ思想を持っている保証はどこにもないからだ。

 「意図」あるいは「意図的であること」を社会という次元で論じることで、個人の内的な世界に関わることなく、「意図」について、それゆえ「規則に違反することの意味」について、客観的に研究することができる。だが、これでは問題は解決しない。意図的であるかどうかを決めるのは社会だと言ったが、それは常識に反する。たとえば学生が登校する時、彼(女)は自分が意図して登校することを疑問の余地なく理解している。他人は学生の行動を観察して意図的に登校していると判断することはできるが、しばしばその判断が難しいこともあり、本人に確認するしかないという場合もある。法廷では被告の証言はけっして絶対的なものではなく、意図的であるかどうかが争点となっている場合は、様々な証拠を考慮して裁判官が判断する。それが被告の主張と異なることもある。しかし、そういう手続きを取るのは人が嘘を吐く可能性があるからで、もし人が嘘を吐くことがなければ、意図的かどうかの判断は常に本人に確認し、本人の申告通りに判定されることになるだろう。そう考えると意図的であるかどうかを決めるのは社会ではなくやはり個人だということになり振り出しに戻る。以前の論考で、「意図的であることの本質は個人に属するが、意図的であることの判断基準は社会に属する」という考えを取り上げ吟味したが、否定的な結論が得られただけだった。それゆえ、「意図的であるとはどういうことか」という問いは未解決と言わなくてはならない。

 だとすると「規則に違反する」とはどういう意味かという最初の問題にも答えがないことになる。人間社会は、明確にそれを意識していないとしても、自然法則と規則の違いを暗黙の前提として成立している。法と法による裁きは、両者の根本的な違いを認めることなくして正当化されることはない。ところが、その根拠となるべき「規則に違反すること」の意味は不明なままになっている。

 「規則に違反すること」の意味が不明なのに、人々はそれが自明なものであるかのように振舞っている。つまり社会は不確かな基盤の上に成立している。勿論このような哲学的な考察には大した意味はなく、現実の人間は現実的に適切な判断を下している、この事実が全てであり、それを哲学的に根拠づける必要はないと突き放すことはできる。だが冤罪事件、家族や愛する者に訪れる不和や誤解、果てしなく続く民族や宗教の違いによる紛争、理解されないあるいは理解できないという苦悩、コミュニケーションの混乱など、社会の至る所に社会が孕む根源的な不確実性が顔をのぞかせる。それゆえ哲学的な考察を無意味として排除する訳にはいかない。それは現実問題としても意味ある問いだからだ。ただ、哲学的な問いに答えが与えられていない今の段階では、このような不確実性を孕むことが社会という存在の本質の一部をなすとしか答えることができない。

(H21/4/5記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.