☆ 創造の源泉〜「モデル・道具論」への序説〜 ☆

井出 薫

 人は一角獣、ゴジラ、キングコングなど架空の怪物を創造してきた。存在しない物をどうして思考し表現することができるのだろうか。創造と想像は違うが、芸術的な創造の源泉は架空の存在を想像することができるところにある。

 数学でも現実には存在しないものを創造する。幅のない線、長さのない点、無限大、無限集合など、少なくとも私たちの感覚には存在しない。それが感覚を超えた叡智界の実在だとしても、直接捉えることができない以上、創造物であることに変わりはない。ここで鍵を握るのは抽象化する能力だ。

 文学では、記号である言葉を自由に組み合わせることで創作がなされる。言葉が記号として機能し、対象から自由に浮遊することができるから創作が可能となる。

 想像は現実をデフォルメする、抽象は現実の多くの特徴を捨象する、言葉は対象から離れて自由に世界を構成する。このようなことが可能となるのは何故だろう。

 言葉がその典型だが、人間の思考と表現は全て、対象そのものの受動的な反映物ではなくモデル・道具として存在する。「モデル・道具」とは、対象の影響を受けて形成されるという点でモデルであり、それ自身が対象に能動的に作用して新しい対象を作り出すという点で道具として機能する。人間の認識や創造は全てこの受動と能動という二重の機能を有するモデル・道具を介して遂行される。

 モデル・道具は対象の性質の一部を描き出すが、その表現は一意的には決まらない。事件の報道内容は報道機関によって異なり、同じテーマ、同じモチーフで書かれた小説や映画も中身は作者や監督によって全く異なる。物理学では、量子論における行列力学と波動力学のように、同じ理論でも表現形式が幾つもある。このようにモデル・道具とその源泉である対象との間には消去できない差異がある。そしてモデル・道具が作り出す対象世界もまたそのモデル・道具とは解消できない差異がある。そのことは同じ目的を達成するために異なる道具を使うことができることから容易に推察できる。

 このように私たちの認識と創造活動に不可欠な「モデル・道具」が対象世界と解消できない差異を有することで、人間は対象世界に制約されることなく、それとは独立した自由な創造の世界を開くことができる。デフォルメも、抽象も、自由な組み合わせも、認識と創造の素材と手段がモデル・道具だからこそ可能となる。

 私たち人間が「モデル・道具」を介して認識や創造するのは何故か、そのメカニズムは何かと尋ねても答えはない。それは所与の現実として捉えるしかない。脳科学は将来、人間の認識や創造に関して新しい理論を提供するだろう。しかし、脳科学自身が「モデル・道具」を介して初めて可能となるものであり、その土台である「モデル・道具」を解明することはできない。このことは心を完全に科学の対象とすることができないことと密接な繋がりがある。だがこの点は別の機会に論じることとする。

(H21/3/22記)


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