☆ 市場 ☆

井出 薫

 マルクスを高く評価し資本主義を克服すべき体制と語りながら、市場は他より優れた経済運営の機構だと主張すると怪訝な顔をされることが多い。中国の市場経済化にも拘わらず、資本主義=市場経済、共産主義または社会主義=計画経済という図式が依然として人々の頭に残っているようだ。

 マルクスは「資本論」において労働搾取が行われるのは市場ではなく生産現場であることを示している。確かに労働者は労働市場を介して搾取の現場に組み込まれる。また生産現場で搾取された剰余労働は市場を介して初めて利潤・利子・地代へと転換される。しかし労働搾取は市場経済の帰結ではない。またマルクスやエンゲルスは、市場は資本主義固有の機構ではなく、資本主義に先立つ社会においても単純な商品交換だけが行われる市場経済というものが存在していたと論じている。このようにマルクスにおいても、市場経済と資本主義は同一ではない。

 一方、計画経済とはどのような経済体制だろう。すべての生産と分配が事前に定められた計画に基づいて遂行される。先ずこういう経済運営を想定すればよい。さらに資本主義より社会主義・共産主義が優れた社会体制であると主張する者は分配の公平を重視する。その極端な例として全員に等しい分配をする社会を考えることができる。子供や高齢者、障害者を例外として全員が働き、全員が等しく受け取る、こういう経済体制が計画経済の典型、一つの理念と考えてよいだろう。しかしこれには多くの難点がある。各人は能力・資質において多様であり、誰が何をするかどうやって決めるのか問題となる。医者を希望する者が5割を占めたとしてもそんなに医者ばかりいたのでは社会は成り立たない。だから医者になる者の数を制限することになる。その一方では希望者がいないような職業にも人を割り当てる必要がある。それは誰が行うのか。計画経済では国家権力がそれを遂行するしかない。計画経済を採用する社会主義・共産主義国家は「我々は働く全人民の代表であり、我々の命令は人民の意思であり、階級社会である資本制や封建制、奴隷制社会における国家の命令とは異なり抑圧的なものではない」と主張する。だがこれは全くの非現実、権力による抑圧を隠蔽する主張でしかない。数千万あるいは億を超える国民の全員が参加して計画を決めることなど全く不可能で計画立案はごく一握りの者の意向で決定される。これを全人民の意思であるなどと言うのは詭弁に過ぎない。しかも全員が等しく分配を受けるのでは不満が起きる。社会に大きな貢献をした者がそうではない者と全く同じ分配しか受けられないとしたら却って不公平だと思われる。スポーツで1位でも最下位でも同じ報賞だとしたら技術の向上は見込めない。マルクスはその著「ゴーダ綱領批判」で共産主義を低い段階(レーニンはこの段階を社会主義と呼ぶ)と高い段階に区別して「低い段階においては、全ての者は能力に応じて働き能力に応じて取る、高い段階においては、能力に応じて働き、必要に応じて取る」と論じている。マルクスにおいても全員に等しい分配がなされる体制は想定されていない。寧ろ全員が同じ分配を受けるのは不公平だというのがマルクスの考えで筆者の意見と一致する。だがそれではどのようにすれば適切な分配が実現するだろうか。同じ時間労働しても能力が高い者と低い者では生産量が異なる。職種が違えば労働時間だけで単純比較はできない。

 ここまでの考察から分かる通り、計画経済を民主的で公平なものとするには、職業選択と生産活動の成果の分配に関して何らかの合理的な基準とそれを実現する機構が不可欠であることが分かる。さらに、そもそも何をどれだけ生産すればよいか事前に適切な計画を立案することができるだろうか。異常気象による第一次産業の生産量の変動、事故による生産停止など計画通り生産が進まないこともあり、また人々の嗜好の変化や新技術や新製品・サービスの発明・開発で需要が変動することもある。単純な計画経済ではこうした供給や需要の変動に迅速かつ柔軟に対応することができない。こうした変動を考慮すると、計画経済は過大な生産計画を立案するか、人々の自由を大幅に制限することになる。

 こうして考えていくと、計画経済と言っても、そこには需要と供給の調整の場であり試行錯誤の場・コミュニケーションの場でもある市場と同じような機構が不可欠となってくる。そして市場に国家が全面的に関与するとしても、民主的で人々の権利が保障され、各人が能力を自由に発揮できるためには、国家の過剰な介入を排除し広範囲に市場の自由を認める必要が生じてくる。だが、こうなると結局それは計画経済ではなく市場経済であるということになる。

 生産力が一定水準を超え、無数の財が存在し無数の職業・職種が存在するようになると、市場経済が経済運営の唯一の現実的な解になる。金融破綻による世界的な景気後退で分かるとおり市場はけっして万能ではない。チャーチルはかつて「民主主義は酷い制度だが、他の制度よりはましだ」と述べたが、市場もまた「酷い制度だが、他の制度よりはまし」なのだ。いずれにしろ資本主義と市場は分離しうるということを銘記しておく必要がある。

 それにしても市場経済は欠陥が多すぎるという意見があろう。完全な自由主義では市場は定期的に破綻し、格差の拡大を生み出す。完全な自由競争における競争均衡でパレート効率(最適資源分配)が実現されるという経済学者の主張は市場の優れた側面を数学的に表現するのには役立つが、現実の経済を分析するのには余り役立たない。経済学は市場の失敗について語るが、例外的事項がなければ市場は上手く機能するという考え自体が正しいとは言えない。市場それ自体に多くの欠陥があり常に外部から監視し適当な介入がなければ機能不全に陥る。それゆえ自由主義者の政策は現実には上手く機能しない。市場そのものの欠陥の典型的な例として労働市場を挙げることができる。そもそも労働者と労働力並びにその消費としての労働を切り離すことはできない。一般的な商品や貨幣は所有者と完全に分離可能で所有者がそれを手放せばその瞬間にその商品や貨幣は元の所有者と関係がなくなる。だが労働力とその所有者である労働者を切り離すことは絶対にできない。それゆえそもそも労働力は商品にはなりえない。ところが独立した個人の自営業者だけしか存在しない社会を除けば、市場経済が成立するには労働市場が欠かせない。資本主義は勿論、社会主義や共産主義でも完全な計画経済を取るのでない限り、労働市場に相当する機構が必要となる。そして計画経済は機能しないことは前に述べたとおりで、これらの社会でも労働市場という機構を欠くことはできないことが分かる。だが本来商品ではない労働力を商品化することなしには市場経済が成立しないということは市場が本質的に欠陥を持つ存在であることを意味する。商品ではないものをあたかも商品のように市場で処理しなくてはならないことから、市場経済は必然的に政治的並びに法的に厳重な制約が不可欠となる。資本家の良心だけでは労働者=人間の権利を守ることはできないからだ。

 それゆえ市場はどんなに上手く機能しているように見えても絶えず社会が監視し適宜介入できるようになっていなければならない。だが社会が適宜介入しても、それだけでは市場は社会に富と公正と平和をもたらさない。資本主義は自動的には崩壊しないが正義に適うとは言えないとこれまでも幾度となく指摘してきた。マルクスは、商品は二重の価値を持つと指摘している。使用価値(その商品が具体的にどのような有益な働きをなすか)と、市場における交換価値つまり価格として具現化する価値、この二つだ。そして資本主義社会では常に価値が優先する。それは資本主義とは、資本=自己増殖する価値体の生産を究極の目的とする社会であり、資本生産=価値の自己増殖の可能性が経済活動を駆動する唯一の原動力となる社会だからだ。それゆえ、資本主義社会の市場では全く空疎な商品たとえば先物取引のような商品が膨大な利益を生み出す素敵な商品として人々の前に現れる。また環境破壊など人間の生命や健康さらには生態系を破壊するものすら資本生産の道具となり市場に溢れることもある。そしてマルクスやその後継者たちが糾弾してやまなかった労働市場を介する生産現場で遂行される労働者の搾取という暗黒面も資本主義体制では完全に解消することはできない。

 市場は多くの欠陥を有するが人間が生み出すことができる経済運営の機構としては最善策と言わなくてはならない。私たちはこれから先も様々な改良を加えながらそれを使っていくしかない。しかし資本主義体制=資本(=自己増殖する価値体)生産が社会の究極の目的であり原動力である社会体制においては、その改良にも限界がある。市場の柔軟性と有益性から資本主義は自動的には崩壊しないが、その克服は必要だと言うのはこういう観点からなのだ。そして、この課題は解決が困難ではあるが人類の究極的な目標をなすと言ってよい。

(H21/2/26記)


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