☆ 科学的探究の論理 ☆

井出 薫

 演繹と帰納は論理学の基本で人間の思考の本質を示すとも言われている。

 演繹の代表はアリストテレスの三段論法で、「すべての人間は23対の染色体を持つ」かつ「ソクラテスは人間である」故に「ソクラテスは23対の染色体を持つ」という論理形式で表現される。だが大前提「すべての人間は23対の染色体をもつ」をどうやって証明するのかという問題が生じる。大前提が正しいという保証がなければ結論「ソクラテスは23対の染色体を持つ」も正しいという保証はない。ここで問題となるのが「すべての」という点だ。記号論理では「∀」という記号で表現される「全て」をどうやって正当化するか、この問題に人々は2千年以上頭を悩ませてきた。実験や観察をいくら積み重ねても、証拠の数は有限で、無限個存在する可能性がある「全て」の事例について証明したことにはならない。特にすでに死んでしまった者は証明できない。

 一方、帰納は「人間の一人である太郎は23対の染色体を持つ」、「人間の一人である花子は23対の染色体を持つ」、「人間の一人である井出は23対の染色体を持つ」という観察結果から、「すべての人間は23対の染色体を持つ」ということを推論する。帰納は演繹の逆方向の推理であり、両者は互いに補足し合うと言ってよい。しかし帰納の出発点となる事例の数は演繹のところでも述べた通り有限であり、「すべての」を正当化することは不可能だ。演繹は空疎な論理であり帰納こそが科学の方法であるという考えも存在したが、帰納だけで科学を生み出すことはできない。科学は基礎原理から様々な未解決の事例を説明し、未知の現象や未来を予測することにその本質があるから、帰納だけではなく演繹が欠かせない。ただ帰納法は数学や論理学を除いて絶対的に確証された真理というものが一般的には存在しないことを示唆するところに大きな意義がある。

 しかしながら科学的な研究やその応用は単純な演繹や帰納で説明することはできない。一般相対論から水星の近日点(太陽に最も近づく点)の移動量を精確に予測することができるが、一般相対論という原理(大前提)から近日点移動量がxxであるという予測(結論)を導き出す過程には無数の仮説や近似が含まれており単純な三段論法にはほど遠い。一般相対論発見の過程を調べれば簡単に分かることであるが、アインシュタインは事例を収集して、帰納法により一般相対論を発見した訳ではない。寧ろ20世紀以降の論理学者・哲学者が攻撃してやまない形而上学的とも言える思考実験と数学的考察を通じて一般相対論を発見した。相対論的量子論の発見者ディラックは「実験結果と一致することよりも、数学的な美しさが理論にとって大切である」と述べているが、この言葉は理論物理学者が帰納法で理論を構築するのではないことを雄弁に物語っている。そのことはニュートンの発見ですでに明らかと言える。地上の物体落下と惑星の運動を一つの法則で統一的に理解するというニュートンの構想は帰納法だけではとうてい理解できない。

 とは言え帰納法が役立たないというわけではない。私たち人間は繰り返して遭遇する同一の体験から一つの法則を導き出すという習性を持っており、それは間違うことも多いが大抵は役立つ。こうした暗黙の帰納法的発想がなければ私たちは生活に困ることになろう。学問の世界でもダーウィンの進化論、メンデルの遺伝法則など生物学の分野では帰納法が重要な役割を果たしていることを指摘できる。現代の遺伝子科学などでもそれは変わることがない。人工多能性幹細胞、RNA干渉、クローンなどでも帰納法的な発想から理論や技術が生み出されている。

 大きく分けて物理学では演繹を核とする体系的な論理(しばしば仮説演繹法などと呼ばれる)が有効で、生物学では帰納法的で現実的な論理がより重要な役割を占めると言ってもよいかもしれない。ただ物理学も帰納法的な事例の収集なしには如何なる理論も生み出されないし、正当化もされない。ニュートンやアインシュタインも多数の実験結果や日常の体験から自らの理論を編み出したのであり、現実世界から隔離された抽象的世界での思考だけで理論を作り出しのではない。しかも理論が正しいと認められるには実験や観測で立証される必要がある。その意味では物理学でも帰納法が重要な役割を果たしている。一方生物学でもメンデルの法則がその典型であるが帰納だけでは一般的な原理には到達しない。有限の実験結果と無限の事例を包括する理論の間には飛躍があるからだ。メンデルの法則の正当性は、メンデルの法則を大前提として演繹された結論が現実と合致するかどうかを検証することで初めて承認される。それゆえ生物学でも演繹が不可欠であることに変わりはない。

 このように(一時期哲学者が問題としたように)演繹法か帰納法かではなく、ふたつの論理的手法がともに手を携えて私たちの思考を支えていることが分かる。だがここで述べてきた事例からも明らかなように、私たちの思考、特に科学的な研究は単純な三段論法的な演繹や単純な事例の収集による帰納では到底説明が付かない。リンゴの落下と金星の運動を同じ類の運動だとみなすには、それ自身は決して論理的に正当化しえない論理の飛躍が不可欠となる。また演繹法の難題、大前提の証明不可能性は依然として変わるところはない。すべての理論はその意味ではどんなによく検証されていても仮説に留まると言えなくはない。しかし科学者は良く検証された理論を単なる仮説とみなすことはない。さもないと仮説と確立した理論の区別がつかなくなる。適応範囲に限界があることを忘れてはならないが、古典力学、古典電磁気学、熱力学、相対論、量子論、メンデルの法則、自然選択説、分子生物学におけるセントラルドグマなどは正しい理論として広く認められており単なる仮説とは異なる。哲学者が指摘するとおり厳密に言えば理論と仮説との境界は明確ではない。しかしカール・ポパーのように「全ての科学理論は永遠に仮説に留まる」と語るのは科学の本質を捉え損なっている。ポパーのような発想は科学を単純な帰納と演繹の積み重ねと捉えることから生じており、ここで示したとおりそのような考えは現実の科学とは異なっているからだ。
(注)トーマス・クーンのパラダイム論もポパーと同じ誤りを犯していると考えるが、詳細な議論は別の機会に譲る。ただクーンのパラダイム論も単純な演繹と帰納の不確実性が議論の出発点となっていることを指摘しておく。−例えば「質量」という概念がニュートン力学と相対論では異質だとクーンは主張するが、それは質量という概念を単純な帰納と演繹により導かれるものと仮定することで初めて正当化される。だが質量はけっしてそのような単純な概念ではない。−なおクーンのパラダイム論は自然科学では妥当とは言えないが、社会科学では大いに有益だと考える。

 脳科学やコンピュータサイエンスの研究などからも明らかなとおり人間の思考は極めて複雑で演繹と帰納だけに還元することはできない。20世紀の英米の論理分析哲学は科学的な論理の正体を解明しようと多大な努力を重ねたが明快な回答を得ることはできなかった。数学のような一見して単純で抽象的な形式論理の積み重ねに過ぎないように見える学問でも、「無限」を扱うために単純な論理だけでは説明できないことが分かっている。またたとえ数学そのものが単純な論理の集合だとしても、数学の証明や新しい数学分野の創設には論理学では説明できない思考の飛躍が不可欠となる。演繹も帰納も、私たちの思考とその産物(理論と方法など)という複雑で見通すことが不可能な広大な樹海のほんの数本の樹木に過ぎない。科学には明快な定まった手続きなどは存在しない。カントはどんなに偉大な科学者も偉大な芸術家には及ばないと語った。なぜなら科学者は定まった手順に従い理論を構築するに過ぎないと考えたからだ。だがそれは明らかに間違っている。科学者も芸術家に匹敵する創造力を必要としている。科学の論理、いや私たちの過ちの多い日常の思考方法も、けっして単純なものではなく、哲学的論理分析などで解明し尽くすことができるものではない。

 但し、だからと言って、人間の思考は科学技術には還元できず、それゆえ人間はコンピュータよりも遥かに優れていると言うことはできない。コンピュータサイエンス、生命科学、脳科学、精神医学、心理学、情報科学、言語研究、社会学的考察そして論理哲学的分析などが手を携えて人間の思考法や科学的方法についてより深い理解を目指すことができる。そして、その成果が人間並みあるいはそれを超える知的なロボット(アンドロイド)として結実することも十分にありえる。尤もそのような存在を生み出すことが倫理的に妥当な試みかどうかは別の問題であるが。

(補足)

※以下の論考では「科学」という言葉は自然科学を意味するものとする。社会科学についてはここで述べることとは別の考察が必要となるが、その点については別の機会に譲る。

 正しい理論と単なる仮説との境界は明確にはできないが、それでも両者は違うと論じた。この点には疑問を持つ者が多いだろう。境界が明確でないのならば、正しい理論を仮説から区別する一般的・客観的基準などなく科学者社会のコンセンサスがあるに過ぎないということになる。こういう反論がすぐに思い浮かぶ。さらに「理論」と「仮説」という言葉の使い分けは科学者たちの世界でも極めて曖昧であることも容易に指摘される。超弦理論を支持する理論物理学者は多いが、実験によりその正しさが実証されたわけではなく数学的・体系的な整合性に基づき支持されているに過ぎない。それゆえこれは理論と言うよりも超弦仮説とでも呼ぶべきものであるが、このような表現が使われることはない。しかし後者の問題については、理論ではなく仮説と呼ぶべきなのだが、それは現場の研究者にとっては瑣末な問題に過ぎず、便宜的に理論と呼んでいるだけだと考えておけばそれで何の不都合もない。問題となるのは、境界が曖昧であるとしたら、正しい理論と仮説を区別する根拠は科学者集団を中心とする社会の恣意的で主観的な判断に基づくことになるという反論だ。この点については、正しい理論は、多数の現象を明快かつ体系的に説明することができる、未知の現象や将来を予測する強力な道具となる、産業や生活に広く応用される、などの事実から客観的で普遍的な性格を持つ科学的なモデル・道具であるとみなすことができるものであり、一方「仮設」とは正しい理論に到達するまでの過程で提案される暫定的な(研究のための)発見的な図式という性格のものである、という説明ができる。一般相対論のように実用性がないと考えられていた理論でもGPS(位置情報システム)やレーダーエコーなどの技術に応用されているし、現代天文学の研究で欠かせない道具となっている重力レンズ現象(重力で光が曲がるために星が実際よりも明るく見えたり、複数の星やリング状の光の帯のように見えたりする現象)を生み出している。つまり一般相対論が単なる仮説ではなく正しい理論であることは、何か特別な論理的な基準を満たしているからではなく、現実世界において様々な領域でその有効性が実証され、応用されていることに根拠づけられている。そして、そのことは正しい理論とは客観的な性格を持つモデル・道具であることを強く示唆する。勿論これは論理哲学的分析で科学の本質を理解しようとする者にとっては満足のいく解答ではない。しかし、「正しい理論」が持つ客観的な性格は、暫定的な解決策あるいは研究の指針とでも呼ぶべき「仮説」が有する主観的な性格とは、(現実におけるその活用において)明確な差異を示している。その差異を論理哲学的な用語で明快に定義することはできないとしても、科学者も一般市民も両者の違いを実際問題として正しく理解しており混同することはない。そしてこの社会的な事実が論理哲学的な研究よりも遥かに強く科学の本質(客観性と実在への適合)を示していると考える。

(H21/1/31記)


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