☆ 決定論と非決定論 ☆

井出 薫

 未来は予め全て決まっているとする決定論的な思想は古代からあるが、近代の決定論の主要思想はラプラスに表現されている。全宇宙の粒子の位置と運動量を知ることができれば未来を全て予測することができる。ただ人間には全宇宙の粒子の位置と運動量を知ることはできないから現実問題として未来は予測できないが、未来は決まっているのだとラプラスは語る。こういう物理法則の普遍性に基づく決定論が近代の代表的なそれと言えるだろう。

 量子論の登場は、古典力学に基づく素朴な決定論を根底から覆した。粒子の位置と運動量を同時に決定することはできず、不確定性原理の範囲でしか決まらない。(説明は省くが)位置と運動量だけではなく、一般的に全ての物理量が共役的な関係にある物理量との間で相補的にしかその値が確定しない。たとえば時間とエネルギーとの間には位置と運動量と同類の不確定性原理が働き、その影響で原子から放出される光のスペクトルは単一周波数ではなく、光を放出するエネルギー準位の寿命により決まる広がりを持つことになる。このような量子論の基礎原理により、未来は一意的に決定することができず、ただ確率論的にしか決めることができない。重要なことは、これは私たちの知識が不足しているから決められないのではなく、自然そのものが確定した未来を持たないことを示しているということだ。つまり古典力学では、現在世界がAという状態にあるとしたらT時間後は確実に(確率100%で)世界はBという状態になるが、量子論では、現在Aという状態にあるとしたら、T時間後はBである確率が50%、Cである確率が50%という具合にしか世界の状態は決まらない。知識が足らないのではなく、世界そのものが不確定なのだ。

 量子論のインパクトは巨大だったが、それでも量子論により決定論そのものが覆された訳ではない。古典力学的な素朴決定論は成立しないことが判明したが、物理法則に従い未来が確率論的に決定されていることには変わりはない。一般的に、どの状態が実現されるかは決まっていない。しかし確率0の状態はけっして実現されないし、確率100%の状態は必ず実現される。他の状態は確率の高さに従い実現する度合いが上下する。そしてこの確率は量子論により精確に決まっており、人間の思惑で変更することはできない。こうして物理法則に基づく近代的な決定論は依然として有効で、量子論の目覚ましい成功は寧ろ物理法則が極めて強力で森羅万象を支配していることを印象付けた。今でも決定論は健在なのだ。

 決定論に対しては昔から予言破りの自由という反論がある。ある質問(例えばカレーライスは好きか)に私がそれを肯定するか否定するかは決定論によれば予め決まっていることになり、私はその決まりを破ることはできない。さもなければ決定論は成立しないからだ。だがこれは明確に背理だと言えよう。コンピュータが「私は「はい」と答える」と予言したら、私はそれに反して「いいえ」と答えることができる。だから予め私の行動が決まっているという考えは間違っている。これが予言破りの自由による決定論への反論だ。

 コンピュータの処理速度とメモリ量の有限性(誤差0の精確な計算は不可能)、量子論による確率的にしか決まらない未来、この二つの事実を考え併せると、行動を厳密に予言するという試みは無意味と言わなくてはならない。予め決まっていたとしても、原理的に人間がそれを知りえないとしたら、あるいは確率的にしか決まっていないとしたら、予言は不可能で予言破りもできない。それゆえ予言破りによる決定論への反論は無意味だと言わなくてはならない。

 とは言え、決定論には根強い批判がある。たとえば近年研究が進んできた複雑系やカオス、それらに関連する数学研究に基づき、確率論的にすら未来は決まっていないという立場がある。散逸構造の研究などでノーベル化学賞を受賞した日本でも著名な故プリゴジン博士などはその代表と言えよう。プリゴジンは宇宙の未来は(人間の知識が不足しているのではなく)本質的に不確実なのだと提唱する。つまり確率論的にすら世界は決定されていない。だが、このような考えに賛同する者は余り多くない。プリコジンは不確実性に基づき現代物理学において最も強力な原理である量子論に重大な変更が必要だと主張したが、成功したとは言えない。未だに量子論は最高の原理として物理学に君臨しており、それを修正しなくてはならない確かな証拠は一つもない。しかもプリゴジン並びに自然界には本質的な不確実性があると主張する科学者たちはその主張にも拘わらず、「不確実性」そのものを物理法則化しようと試みており、結局のところ、世界が物理的に決定されているという根本思想は近代的決定論者のそれと変わるところはない。要するに彼(女)らは量子論や熱統計力学の解釈に対して根本的な変更を要請するものの、世界が物理法則で規定されているという思想においては決定論者と見解を共有する。これはある意味で当然の帰結と言えよう。物理学者など自然科学者は、自然は科学的に解明することが可能という前提に立って研究を進め理論を構築する。それゆえ理論の選択に違いがあっても、世界が自然法則で記述されるという観点では意見に相違はない。だとすると、どのみち決定論的な立場から抜け出すことはできない。可能な道はただカントのように、自然科学は現象を認識することができるだけで「物自体」は認識できない、人間の自由意志は紛れもなく存在するが、それは「物自体」に属するから自然科学では解明できない。このようなカント的な立場を採用したときに初めて決定論から抜け出すことができる。だがカントの考えを支持する科学者はおそらくいない。科学者のみならず、哲学者もカントの「物自体」という考えをそのまま信奉する者はほとんどいない。認識不可能な「物自体」はあくまでもカントの創造(想像)に過ぎず、現実性はない。認識不可能な物自体については本来何も語ることができないはずであり、そこに道徳原理を読み込む根拠はない。カントは理性を理論理性と実践理性に分離することでこの背理を回避しようとするが、どうしてこのような分離が可能なのか何も語っていない。−カントは「判断力批判」において両者の関連を明らかにしようと試みるが成功していない。−そもそも理論的に認識不可能と言っている以上、それに答える術はない。

 しかしカントの考えは、なぜ私たちが決定論に懐疑的、批判的になるのか、その理由をはっきりと示している。それは決定論が正しいとしたら善悪を語ることが無意味になるように感じるからだ。殺人者は殺人をするように決定されていた。あるいは少なくとも殺人を犯すゼロではない確率を与えられていた。宇宙の始まりから彼(女)は殺人者となる運命だったのであり、それに逆らうことは彼(女)には不可能だった。だとしたら犯罪者を罰することに道徳的な正当性があるとは言えなくなる。犯罪も、犯罪者を罰する行為も、ただ物理法則に基づき生じる事象で、太陽で起きている核融合反応と同じ自然現象に過ぎない。従ってそこには何ら道徳的な意味はないことになる。ただ人はそこに道徳的な意味があると何の根拠もなく信じているだけなのだ。決定論はこういう考え方に道を開く。勿論決定論を採用すると自動的に道徳否定論者になるわけではない。決定論を支持する科学者でも道徳には何の意味もないなどと主張する者はいない。しかし、そうなると首尾一貫した世界観がそこには欠けていると言わなくてはならない。

 だが「決定論か非決定論」という二者択一的な問題設定が間違っていると考えることで問題を解消することができる。科学者は科学研究をする時には、カオスや複雑系を重視して単純な決定論の修正が必要だと考えるとしても科学的な世界像を維持する。それは非決定論的な要素を多分に含むが基本的には決定論的であることを止めない。それを止めたら研究が無意味になる。なぜなら、何の法則性もないとしたら自然研究は何も成果を挙げられないことになるからだ。だから科学者は科学の現場では決定論を捨てることはない。技術者も一般市民も科学を様々な領域で応用するとき科学者と同じ態度をとる。一方で道徳的な問題を論じるとき人々は非決定論的な立場を暗黙のうちに採用する。殺人者に対して「君は何故思い止まることができなかったのか。殺される者やその家族の悲しみや無念を想像すれば、君は他の選択ができたはずだ。」誰もがこう言って殺人者を咎める。このように人々は暗黙のうちに決定論と非決定論を上手に使い分けており、それにより円滑に生活を営むことができている。それで何の問題もないし、他に取るべき合理的な道はない。これに対して、それは結局カントが主張したことではないかという指摘があるかもしれない。だが私たちは「物自体」と「現象」を分けたりしない。そういう分離が必要だとも思わない。事実必要ない。カントは伝統的な形而上学批判を遂行したが、それでも自らの壮大な哲学体系に全てを包摂しようと企てた。その結果その内部に矛盾を孕むことになる。ヘーゲルはカントを批判して弁証法的な視点を取り入れることでそれを克服しようとしたが、カント以上に世界を統一化・体系化しようとしたために却って矛盾が拡大した。物理学にしろ、数学にしろ、哲学にしろ、世界を悉く認識し説明し尽くすものではない。そのことを考えれば世界には多様な顔があり、それに応じた学問や芸術があることを理解できる。学問は以前述べた表現を用いれば全てモデル・道具であり、それ自身が世界と合致することは決してない。そしてそれぞれの領域でその領域の特性に従って、決定論的な発想が使用されることもあれば、非決定論的な発想が使われることもある。この点を押さえておけば、私たちは決定論が正しいか、非決定論が正しいかという疑似問題に煩わされることはない。学問と認識一般の性格をよく理解することで「決定論か非決定論か」という答えのない問題を解消される。


(H21/1/12記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.