☆ 腰痛で分かる哲学入門 ☆

井出 薫

 プラトンはソクラテスの名を借りて人の本質は魂で、魂は身体とは異なると論じた。プラトンの論証はおおよそ次のようなものだ。金槌を使って釘を打つ。金槌という道具は私とは異なる。金槌に限らず道具一般は私とは異なる。私は釘を打つとき手を使う。手は道具の一つだ。だから私と手は違う。身体も道具だから私とは異なる。だから私とは身体とは異なる魂だ。

 明らかに間違っていると誰もが感じるだろう。反駁の仕方は色々あるが、現実に基づいた反論が最も説得力がある。実は昨年末に腰を患ってからずっと強い痛みが続いている。少しでも下手な腰の動かし方をすると激痛が走る。黙って座っていても腰の辺りが重苦しい感じがして痛みがあり、急いで立ち上がろうとすると激痛でそのまま椅子の上で固まってしまう。鎮痛剤を服用すると痛みは和らぐがそれでも鈍い痛みが続いている。別のことに注意を向けることで暫しの間、腰の痛みを忘れることはできる。しかしそれはほんの僅かな瞬間だけだ。本に熱中しても、こうして駄文を書いていても、暫くすると腰痛が意識の上で大きな比重を占めるようになり、本や著述に熱中できなくなる。

 魂が身体と独立した存在で私の本質をなすとしたら、私の意志で腰の痛みを完全に忘却することができるはずだ。だが現実には出来ない。これに対して身体に宿っている限り、魂は身体の状態を常に気遣っているので痛みを忘れることができないだけで、身体が滅び純粋な魂になれば痛みなどなくなるという意見がある。しかし「痛み」は人間存在の本質をなす。完全に痛みを感じない状態を想像することは難しい。苦しむ人間をみて同情するのは誰でも自分の痛みを知っているからだと思われる。「心が痛む」という表現を容易に理解できるのも身体の痛みから類推することができるからだろう。ごく稀に痛みを感じることがない人がいると科学論文誌で読んだことがあるが、こういう人は色々と生活に支障を来すと思われる。怪我や病気にすぐに気が付かないという問題だけではなく、他人とのコミュニケーションでも色々と苦労をすると想像される。

 こうして厳密な反駁ではないが、腰痛という生々しい現実を例にあげると、魂と身体は分離不可能な存在と考える方が自然に思えてくる。もし魂と身体が全く別物で私の本質をなす者が魂であるとしたら、その魂は身体を離れたときには、身体とともに在るときとは全く異なる在り方をすることになる。それがどんなものであるか身体を持っている者=現世に暮らす者には分からない。だが純粋な魂がどのようなものであるかこの世に暮らす者が(プラトンを含めて)誰も知らないというのに、プラトンの証明が正しいと言うのはおかしい。

 腰の痛みを忘れようとしてこの文章を書きだした。だがやはり忘れることができず、横を見た途端に激痛が走った。やはりプラトンの説は間違っていると思う。正しければ良いのにと心から願うのだが。

(補足)
 プラトンの論証を批判する普通の筋書きは、金槌を使うのは私の身体であることを指摘するという方法だ。「私は(道具としての)金槌を使う」と言うとき、この文章の「私」は魂ではなく身体に相当する。ところがプラトンはこれを無視して、「私は手を使う」と言うときには、「私」を魂にすり替えている。つまりプラトンの証明は、「私」という言葉の多義性、曖昧さを利用した詭弁であり、正しいものではない。だがこのような反駁は本文で述べた議論より緻密だが、この反駁もまたプラトン同様どこか詭弁という感じがする。やはり正直に現実を見ることが何よりも真実に近づく正しい道なのだ。「考えるな、見よ!」(ウィトゲンシュタイン)

(H21/1/2記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.