☆ 偶然 ☆

井出 薫

 「偶然」とはどういうことだろう。すべては必然であるとスピノザやニーチェは語る。物理法則は普遍的で必然的だと物理学者は考える。だとすると「偶然」なるものはどこに、どのような意味で存在するのだろう。

 すべては必然でも、人間の知識は限られている。だからより高い次元からみれば必然でも、人間の目からすると偶然に見える。こういう考えがある。偶然は主観的なものに過ぎないという考えだ。車が十字路に差し掛かる。この道はめったに車は通らない。運転手は気にせず直進する。突然横から車が飛び出してきて衝突する。二人の運転手にとって事故は不幸な偶然だった。だが、道路を見通せる高い塔の上から2台の車を見ていた男がいる。その男にとっては車の衝突は必然だった。しかし、この男にとっては、衝突を目撃することは偶然の出来事だった。だが別の男が上空から車と男の行動を観察していたとしたら、男が車の衝突を目撃することを予測することができた。つまりこの別の男にとっては全てが必然だった。だがこの別の男も自分がこれらの一連の出来事を目撃したのは必然ではなく偶然と考える。こうして偶然と必然の連鎖がどこまでも続く。だが、この連鎖の極限に位置する者は世界をどのようにみるだろう。ここまでの議論から分かる通り、階段を一歩昇るごとに必然の領域が広がっていく。だから極限に位置する者は全てを必然としてみる。それをスピノザは「永遠の相の下に見る」と称した。永遠の相の下に見る者には全ては必然となる。スピノザによれば、永遠の相の下に見る者とは世界を超越した者ではない。なぜなら、世界を超越した者が存在するならば、世界とそれを超越した者の両方を含む超世界が存在して、その超世界から見れば、超越者は自分が世界を相対していることについては偶然としてしか見ることができないからだ。それゆえ永遠の相とは、世界に内在しながら世界全てを把握するような存在を含意する。

 これは神秘的な議論のように思えるかもしれないが、究極の物理法則は普遍的で必然的だとする現代物理学の常識と合致する。物理法則は外部から与えられたものではなく、世界に内在しながら世界を主宰するような存在として聳え立つ。量子論という最も基礎的で普遍的な物理学の原理が未来を統計的(確率的)にしか予測できないと言っても、そこに偶然が導入されるわけではない。統計論的に未来は完全に決定されており、全ては必然だと言えるからだ。

 だとすると「偶然」とは不完全な知識しか持ちえない有限な人間にとってのみ存在するもので、それはけっして客観的なものではないということになるのだろうか。だがもう一度これまでの議論を振り返ってみよう。より高い段階に昇ることで必然の領域は確かに広がる。だがどの段階でも偶然的要素が残っている。だとすると、どうして極限において全てが必然になる段階がなくてはならないということになるのだろう。永遠に偶然を含む階段が続いていくと考えては何故いけないのだろう。

 物理法則が普遍的で必然的だという考えは多くの証拠から支持されている。だが無限の出来事と多様性を持つ宇宙の中で人間が収集した証拠の量は全体から見れば無限小に過ぎない。そのような無限小の証拠だけから世界を必然と決めることは傲慢だと言わなくてはならない。

 そもそも必然という概念は偶然という概念と対をなすことで初めて意味を持つ。だとすれば、偶然が主観的なものに過ぎないならば、必然もまた主観的なものに過ぎないということにならないだろうか。

 ここで再び事例に戻ろう。車の運転手よりも道路と2台の車を見通す高い塔に居る男を、より高い段階に属する者だと想定した。だがこれは正しいだろうか。運転手と男は実は同じ段階に属する別の者と考えることもできる。塔の上からは2台の車の動きは見える。しかし運転手には見えるが塔の上に居る者には見えないものが存在する。車の中の装飾品、塔の看板などがそれだ。だとすると、運転手よりも塔の上の男が、より高い段階に属するとは言えない。見ている場所が違うに過ぎない。

 こうして私たちは一つのことに思い至る。それは、必然か偶然かは世界の性質ではなく、世界を見るときの見方の問題なのだということだ。ある者はある出来事を必然と捉え、別の者は偶然と捉える。逆に別の者が必然と捉える出来事を最初の者は偶然と捉える。これはどちらかが正しく、どちらかが間違っているという類の問題ではなく、どのような見方をするのかという問題なのだ。だから両方とも適切な捉え方だということもありえる。

 世界そのものは必然でもなければ偶然でもない。ただ観測者にとって自分の観測結果を理解あるいは説明する上でどちらの見方が適切かという問題だけが存在する。例を挙げよう。私は友人にコンビニで電池を買ってきてくれと依頼する。コンビニに向かう途中友人は自動車と接触して怪我をする。物理的な因果関係で考えると私の依頼と友人の怪我は必然的な関係になる。だが法的係争になれば、私の依頼と友人の事故との間に相当因果関係が認定され私が責任を負うことはない。友人の事故は私が自動車の運転者と共謀して引き起こしたものでない限り、私にとっても、友人にとっても偶然の出来事に過ぎない。このように偶然か必然かは、世界そのものの性質ではなく、見方の問題なのだ。
(注)専門的な表現を使うと、「偶然」、「必然」という概念は、存在論的(あるいは形而上学的)な概念ではなく、認識論的な概念だと言うことができる。但し存在論的な概念と認識論的な概念を厳格に区別することは困難だと思われる。

 それでも私たちは、世界は必然であるか偶然であるかのどちらかであると言いたくなる。この錯覚は事例で示した連鎖の極限を実在するものと想定することから生じる。だがこの連鎖も、連鎖の極限も思考実験においてしか存在しない。それは如何なる意味でも現実の世界そのものではない。私たちの認識は、世界そのものの再生産ではなく、世界を自分たちの目的に利用するためのモデル・道具の生成であるということを理解すれば、このような錯覚に陥ることはない。しかし私たちの認識は世界そのものと同一であるという克服しがたいドグマに縛られて私たちはなかなかこの事実を理解できない。だが偶然と必然について考えることが、この迷宮から脱出する道を示している。


(H20/12/18記)


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