☆ 社会とは何か(試論) ☆

井出 薫

 「社会」とは如何なる意味で存在するのか。この問いに答えることは案外難しい。

 現実に存在する者を実在と呼ぶことがある。ユニコーンやゴジラは実在するのではなく単に物語や映画に登場する空想上の存在で実在者ではない。一方、現実に生きている個人が実在することは異論がない。ただ「実在」と「存在」を区別することには多くの問題があり、本稿の目的が存在の意味を問うことではなく、社会とは如何なる意味で存在すると考えるべきなのかを論じることにあるので、実在と存在を分けて議論をすることはしない(注1)。これでも議論には特段の影響はない。いずれにしろ現実の個人が存在していることは間違いないが、個人の集合概念である人間(あるいは人類)は存在すると言えるだろうか。
(注1)ソクラテスやゲーテのように歴史上の人物は実在すると言えるのかという問題がある。普通に考えると現実には存在しないのだから実在するのではないと言うべきだろう。しかし、現在だけではなく過去、未来を含む「時間」は実在するのかというのが難しい問題となる。宇宙は137億年前にビックバンで始まったと現代の宇宙論は語るが、ビックバンという出来事は実在すると言えるだろうか。少なくとも物理学者は実在する出来事だと語る。だとするとソクラテスを実在すると言っても不都合はないことになる。このように「実在」という概念については難しい問題がたくさんある。「2400年ほど前にソクラテスという人物がギリシャで活躍した」というような記述をすることで、この言明が真実であることを以ってソクラテスの実在性を理解することができる。ビックバンの実在性も同じような観点で、現代の様々な観測結果(たとえば宇宙の3度Kのバックグラウンド輻射の存在)との関連において実在すると語ることができる。だが、このような理解には多くの難点があることが判明しており、実在と存在の関係については確立した考えはない。そもそもこれは疑似問題に過ぎないという立場も存在する。本稿は実在の理解を問題にするのではないのでこれ以上深入りしない。ただ筆者は両者の区別は表現の問題に過ぎず確定した答えを求めるのは無意味だと考える。

 「人間」という概念は個人の集合に付けられた名前に過ぎず、ただ名目的に存在するものでしかないという立場がある。このような立場を西洋中世の普遍論争に因んで唯名論などと呼ぶことがある。人間は遺伝子が共通しており、生殖単位として他の生物種と明確な区別ができる。だから個人のように「これ」と明確に指示することができなくとも、単なる名前ではなく自律した存在と考えるのが妥当だ。単なる名前であれば恣意的に人間という言葉で表現される対象を拡大したり縮小したりすることができるが、自然科学的に人間の範囲は明確に決定される。−文学的には人間という言葉は様々に使用可能であるが、これは派生的な使用法、隠喩だと捉えればよい。−では「生物」はどうだろう。これは生物種の寄せ集めに与えた単なる名前だろうか、それとも確固たる自律的な存在だろうか。生物には自己増殖(遺伝子情報に基づく自己複製)、代謝、適応など非生物にはない共通した特徴があり、やはり存在すると言ってよいだろう。(注2)
(注2)ハイデガーならば、このような議論に対して「存在(在る)」と「存在者」が混同されていると指摘するだろう。しかし、筆者は存在と存在者の区別は便宜的なもの、言葉の使用の問題に過ぎないと考える。存在か存在者かという問いには大した意味はないというのが筆者の立場であり、それゆえ本稿では「存在」という言葉を「存在者」という意味も含むものとして使用する。因みに、注1と併せて読んでもらえば分かるとおり、存在論では、「存在」、「存在者」、「実在」、「実在者」、「実存」、「実体」などという紛らわしい言葉が意味の曖昧なままに濫用されている。その結果、不正確で独断的な議論が溢れ、哲学者たちの間で見解の一致をみることがない。このような混迷を解消しようと20世紀の論理分析哲学者やウィトゲンシュタインは精力的に研究を進めたが結局問題は解決されていない。本稿を含めて存在を語る時には常に混沌へと引き摺り込まれることを覚悟しておく必要がある。ただ、そのことが必ずしも(哲学的)「存在論」が無意味であることを意味しないところに難しさがある。ハイデガーが指摘するとおりに、自然科学の研究をするときにも、哲学的思索をするときにも、経済学の問題を研究するときにも、実生活の諸課題と取り組むときにも、人は暗黙のうちに、何らかの形の存在了解を引き受けている。それゆえ、「存在とは何か」、本稿の主題である「社会とは何か=社会とはいかなる意味で存在するのか」という類の問いが繰り返し蘇ってくる。本稿もその議論の一つと見てもらっても構わない。

 では、生物と非生物を包括した「自然」あるいは「宇宙」は存在するのだろうか。それとも単なる名前に過ぎないのだろうか。これまでの議論を振り返れば容易に分かる通り、人間や生物を自律した存在と認定した根拠には他の存在(人間以外の種、非生物)との間に(厳密に言えば曖昧さが残るが)明確な境界線を画定することができるという事実がある。生物などだけではなく、月、太陽、銀河なども同じ理屈で自律的に存在すると言える。それに対して自然や宇宙は全てを包含するものであり、神など超越者を想定しない限りは他者との境界線を画定することはできない。しかし宇宙は基礎的な物理理論により統一的にその構造と変化を理解することができる。そこで、「存在」という概念を拡張して「物理法則でそれを記述することができるもの」という意味に捉えることにすれば、宇宙あるいは自然は、超越者を想定することなく、単なる名前ではなく自律的に存在すると語ってよいことになる。−物理法則で記述されることを条件にすることは不自然ではない。このように定義すれば、単独では観測不可能なクォークや絶対に観測ができないブラックホールの内部も存在すると語ることができる。そして、これは私たちの常識と合致する。−

 では、東京大学、トヨタ自動車などは存在するだろうか。これは社会的な制度により存在するのであり、月や太陽のように、これと名指しすることができるような個体として存在するのではない。トヨタ自動車の本社を指さして「これがトヨタ自動車だ」と語ることには意味がない。本社が移転しても、ビルを新築しても、トヨタ自動車が変わるわけではない。東京大学も勿論同じだ。社会的な存在は法など多様な形態を取る社会制度により初めて自律した存在となる。制度の基礎は、普通人々の意識に上らない(但し意識化することも可能な)社会を規定する規則の集積体にある。つまり、自然の存在物が、必然的で人間の思惑とは独立な自然法則により自律した存在となるのに対して、社会的な存在物は、意図的な違反や変更が可能な規則の集積体とその物象化(注3)としての制度により初めて自律的な存在となる。
(注3)「物象化」という言葉は人間社会の諸関係があたかも独立した外的な物として現れることを意味し、マルクス主義者がよく引用する言葉で、日本では、故廣松渉氏が自らの思想の根幹を語る言葉として「物象化」を用いた。筆者が用いる「物象化」は聊か意味が異なるが、本格的な議論は別稿に譲り、ここでは「人々の行動を拘束する(通常は無意識的な)諸規則が法や政府のような可視的な制度となり、人々に対して外的な拘束力を持つようになることを意味する」という説明に留める。

 それゆえ、社会的な存在は、同じ「存在」でも、自然的な存在とはその存在の意味が全く異なる、つまり存在論的な位置が違う。ここで核となる思想は、自然は必然的で人の思惑とは独立した自然法則で、社会は意図的に違反可能な規則の集積体で特徴付けられるという考えだ。

 では、最後に、ごく少数の物理法則で記述される統一体であるという理由から、自然(あるいは宇宙)を単なる名前ではなく自律した存在と捉えたように、「社会」も一つの自律した存在と考えることができるかどうかを検討してみよう。(注4)
(注4)「自然」という言葉は、全体としての自然(宇宙)という意味で使用されることもあれば、個別の自然物や自然現象を指すときに使用されることもある。「社会」という言葉も同じだ。自然という概念を自律した存在として語ることの妥当性は、自然という言葉をどちらの意味で使用しているかに関係なく、全体としての自然を自律した存在として語ることが正当であることに基礎付けられる。それゆえ、以下の議論では、家族、企業、教育機関、自治体、国家、世界など多様な社会を包括する(全体的、包括的な意味での)社会を対象に議論を展開する。

 社会は規則の集積体で特徴づけられる。だがこの規則の集積体はけっして一つの規則に還元されるものではない。規則と言うと、数学に代表されるような厳密な規則を思い付くが、社会を特徴づける規則には、曖昧で、どこまでが規則違反で、どこまでが違反でないかがはっきりしないものが多い。エチケットと呼ばれる規則が典型で、ある行為が規則違反かどうかは状況や判断する者によって異なる。セクハラは被害者の主観で決まるが、まさにこれは社会において人を拘束する規則が極めて曖昧で数学的な厳密さとはほど遠いことを示している。何がセクハラに該当する振る舞いかを客観的に列挙することはできず、被害者がセクハラを受けたと考え、周囲の者がその妥当性に概ね合意するとき、あるいは法的係争になって裁判所がセクハラを認定するとき、加害者の行為はセクハラになる。だが同じ行為でも受け取る側がセクハラと感じなければそれはセクハラではない。これはいい加減であるようにも感じるが、セクハラを厳格に定義したら、ほとんどの行為がセクハラに該当することになるか、ほとんどの行為がセクハラに該当しないことになり、「セクハラ防止」を標榜することの意味がなくなる。言論や報道の自由とプライバシーの関係はしばしば議論の対象となるが、これもその都度解決すべき問題で、予め明確な規則を設定したのでは、言論や報道の自由を必要以上に制限することになるか、逆に無制限にプライバシーが侵害される危険が生じる。このように社会を特徴付ける規則の集積体は曖昧で不確実なものでけっして数学的厳密性は期待できない。

 一方、しばしば「法則」として語られる経済学の主張も、必然的な自然法則ではなく、違反可能な規則の集積体を表現するものでしかない。経済学的な規則は確かに相当程度に自然法則的な確実性を示す。経済学で数学が極めて有効である理由がそこにある。だが実際は経済法則に人は容易に違反することができる。気紛れで高い店で品物を購入したり、高い価格で購入した品物を安くあるいはただで他人に譲ったりすることができるし、事実こういうことはよくある。合目的的な行動をとるはずの企業も無謀な投資をして破綻することがある。これはけっして統計的な偏差ではなく経済的活動の本質なのだ。このように、経済を含めてあらゆる領域で、社会とは規則の集積体として特徴付けられる。しかしその規則の大多数は数学的な厳密性を持つようなものではなく、曖昧であり、また常に違反したり、無視したり、あるいは改変したりすることができるものとして存在する。つまり、様々な社会は規則の集積体として特徴付けられるという点に共通性があるとは言え、包括的な意味での「社会」は、「自然」(あるいは宇宙)のように明確な必然的法則で統一的に把握されるものではない。果たして、それを自律した「存在」と語ることが妥当だろうか。それとも、ただそれは、家族、企業、自治体、国家、民族、宗教、などさまざまな社会的存在や社会的な事象を総称するための単なる名前に過ぎないと言うべきなのだろうか。

 筆者は、「社会」を自律した存在として捉えるべきだと考える。確かにそこにあるのは、統一されない雑多なものでしかない。しかし、決して解消されない(正であろうと負であろうと)遺産として継承されるものが人々の社会的な行動を拘束し規定するという事実がある。マルクスは生産過程を論じるときに、死んだ労働と生きた労働を区別した。死んだ労働とは過去の労働で生産手段(道具や機械など労働手段と、原材料・半製品など労働対象)に結晶化された労働を意味し、生きた労働は現実に活動している労働力の支出を意味し、マルクスは後者こそ価値増殖=資本生産を可能にするものだと論じている。マルクスの生産過程論には難点が多いが、労働に現れる社会活動の二つの面を区別したことは意義深い。それは取り消し不可能な過去の継承という側面と、現在に生きる者たちの現実の活動という側面から社会が構成されることを示す。生産活動だけではなく、政治、法、宗教、文化など全ての社会的人間活動において、過去の継承という側面が、現実に生きる者とその活動という側面と共存している。両者はしばしば矛盾しそれが社会的な対立や混乱を引き起こし革命に至ることもある。だが過去の遺産があるから社会は維持される。法律をゼロから全て作らなければならないとしたら社会秩序などありえない。過去の学問の蓄積がなければ子どもの教育はできない。いずれにしろ、私たち人間は、過去に依存して生きている。それは、ヘーゲルの絶対精神のように人間を操り人形に変えてしまう超越者ではないが、全ての者に対してけっして無視できない何かとして確実に存在する。

 このような、過去の継承として、現世に生きる者たちを超えた存在として「社会」は確かに存在すると言える。それは単なる人間集団の相互関係や個々の組織や出来事に還元されるものではない。社会とは、(自然のような統一性を持つものではないが)自律した存在として捉えるべきものなのだ。(注5)
(注5)このような遠回りな議論をすることなく、社会を自然とは異なる領域として捉えることで、自然と異なる存在として社会を理解することができる、という考えが浮かぶかもしれない。しかし、月と地球がそれぞれ自律した存在として相互作用しながら並存するのとは違い、自然と社会は物理的時空で並存しているのではない。それゆえ自然と社会は異質だと考えることを以って、社会に自律した「存在」的性質を付与することはできない。寧ろ、本稿での論考で理解される意味での社会を出発点として、自然と社会の関係を議論するべきである。

(補足)そもそも法則や規則がどのような意味で「存在」するのか問うべきだ、という指摘がなされるであろう。また、家族や企業、国家など個別の社会と、包括的な意味での社会との関係が曖昧であるという指摘もあるだろう。だが、これらについて論じるには広範でより深い考察が必要となる。従って、これらの問題は検討課題として残しておく。

(H20/12/7記)


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