☆ 近代科学思想の正当性と目的論の復権 ☆

井出 薫

 アリストテレスは運動の原因を目的から説明した。全ての物体は地上に静止している状態が最も自然で理に適っている。だから、空中にある物体は地上に落下する。運動している物体はいずれ静止する。

 アリストテレスの目的を運動の原因とする思想はルネッサンスの時代まで西洋を支配した。しかし、17世紀に入ると、ガリレオ、デカルト、ニュートンなど、新時代の思想家たちが、物体の運動は、目的ではなく、機械的な力により引き起こされるという新しい思想を提唱した。運動している物体は自然に停止するのではなく、何らかの力が働くから停止する、何の力も働かなければ物体はそのまま運動を続ける。物体が落下するのは地上で静止した状態が自然だからではなく、地球による引力が働くからだ。世界は、観念的な目的により動いているのではなく、人間の意識から独立した機械的な自然法則に従って動いている。新しい思想家たちはこう主張した。ここに近代科学思想が誕生した。

 21世紀に生きる私たちは、この近代科学思想を信じている暮らしている。世界は目的ではなく人間の意識から独立した数学的・機械的な自然法則に従って動いていると信じている。

 生物学は物理学のように数学的に厳密な方法で生物の運動を記述することはできない。だが、定性的な説明しかできない場合でも、その根底には数学的に厳密な物理法則が働いていると生物学者は考えている。化学者、地質学者、考古学者、みな同じ考えである。  こういう近代科学思想に疑問を抱き、それを否定する人たちも少なくなかった。哲学者の多くが自然科学の万能性に疑問を投げかけ、独自の思想を提案した。ヘーゲルはニュートン力学の普遍性に異議を唱え、疑似生物学的な記述法を取り入れながら、絶対精神の自己運動として世界を把握しようとした。20世紀に入っても、ベルグソンが自然科学の客観性・普遍性に異議を唱え独自の世界観を提起した。

 ヘーゲルやベルグソンのような哲学者たちの世界観は独創的で魅力に溢れたものだった。だが、現実の世界は彼らが述べているようにはなっていない。20世紀に入り、自然科学は様々な領域で大発見を成し遂げた。かつては人知の及ばない領域と思われた分野でも発見が続いた。科学の応用は良くも悪くも人間社会を一変した。人口は20世紀一世紀で一桁増加した。ありのままの自然はどんどん消滅して人間が制御する領域が格段に増大した。人間の産業活動と消費活動はいまや地球全体の環境を左右するまでになった。

 このような人類の飛躍の根底には、近代科学思想が控えている。たしかに、ニュートンの力学そのものは、電磁場の理論や相対論、熱統計力学、量子論により大きな修正が加えられた。ニュートンやカントにとっては自明の真理だったユークリッド幾何学は、いまでは、非ユークリッド幾何学の一形態にすぎない。宇宙がユークリッド幾何学的であるかどうかは観測結果に依存する。生物学や生態学、地質学などが扱う問題は単純に方程式をみつけてそれを解くという遣り方では解決できない。すべてはニュートン力学で説明できるとする単純な機械的自然観は過去のものとなった。だが、それでも、17世紀の偉大な思想家たちが生み出した近代科学思想の有効性は少しも損なわれていない。現代社会はその揺るぎない基盤のうえにある。もちろん、社会的な諸問題は自然科学で解決することはできない。社会の諸制度や組織、道徳、人間の生に関わる問題には独自のアプローチが必要だ。しかし、世界は物理学を基礎とする自然科学により解明される存在であるとする近代科学思想の有効性は健在だ。

 だが、こういう近代科学思想が気に入れらない人は依然として少なくない。さすがに、ヘーゲルやベルグソンのような壮大な観念論体系を提唱する人はいなくなった。科学にいくら疑いの目を向けても、電気、自動車、列車、飛行機、電話、テレビなど文明の利器なしで暮らすことは難しい。農業や水産業など第一次産業も近代科学技術の恩恵なしには増大する人口を養っていくことはできない。現代の医学が過去の医学より遥かに進んでいることも否定できない。

 だから、哲学者を中心とする現代の反科学主義者は迂回戦術を取る。科学の理論を引用して科学にケチをつけるという遣り方をする。最近は、複雑系やカオスなどが盛んに引用される。反科学主義者によると、これらの最新の科学理論はニュートン的世界観の崩壊の徴だそうだ。一時期流行ったポストモダニズム的なニューサンエンスの宣伝者たちは、科学はニュートン的パラダイムからポストモダン的パラダイムへと変換しつつあると予言した。

 ポストモダニズムやニューサンエンスが全く無意味だとは思わないが、最新の科学理論がニュートン以来の近代科学思想を根底から覆すなどと評するのは全くの誤りであると言わなくてはならない。コンピュータの発展はかつて不可能だった膨大な量の数値計算を可能にした。その結果、フラクタル、カオス、複雑系などという新しい研究分野が開かれた。だが、複雑系、カオス、フラクタルなどは、すでに100年も前に、ポアンカレのような優れた数学者や物理学者がその存在を指摘していたものだ。ただ、コンピュータがなかったので本格的に研究することが出来なかっただけなのだ。100年前の数学者は微分可能な解析関数しか研究ができなかったから、それに精力を集中した。そして、その分野では大きな成果が達成された。いまは、コンピュータにより膨大な数値計算を短時間でやり遂げることが出来る。だから、フラクタル、カオス、複雑系、計算理論などが大いに研究できるようになり、数学者や工学者がそれに勤しんでいる。それだけのことだ。ニュートン的世界観の崩壊だとか、近代科学思想に対する根本的な革命が迫っているなどというのは、全くの戯言だ。

 科学技術が引き起こす公害や自然破壊、人間社会の歪みなどから、人々が科学技術に対して疑いの目を向けるのは当然だ。こういう見せかけだけ新しい反科学思想はそういう社会の潮流を利用して自分たちの思想を宣伝している。だが、そこには新しいものも、積極的に肯定できるものも極めて少ない。科学技術が引き起こしている自然や社会の諸問題は、近代科学思想の正当性と現代社会がその基盤の上に成立している事実を正しく評価したうえで初めて解決することができる。近代科学思想を観念的に克服するなどという遣り方では少しも前進しない。

 だが、その一方で、アリストテレスの目的論的な説明にも一定の意義があることも思い出す必要がある。人間を含めた生物の様々な活動や構造は、生物の器官や機能を目的論的な視点から眺めることで初めて理解することができる。たとえば、胃腸は食物の消化吸収という目的のために存在する。このように目的という観点から問題を定式化することで、初めて胃腸の科学的な研究が可能になる。胃腸を分子の集合体という力学的な系だと考えたのでは胃腸の研究はできない。もちろん、目的論的な説明だけでは研究は進まない。近代科学的な方法で胃腸を構成するものは意志も意識もない単なる物理的な物質であることを考慮して詳細なメカニズムを研究することで、胃腸に関する知識は向上して、それを応用することができる。

 生物の特徴は合目的的性(注1)にある。アリストテレスを始めとする古代の思想家たちは、洋の東西を問わず、まず生物の合目的的性に着目して、それを世界に拡張して、生物的な合目的的な世界観を打ち出した。それは人間にとって無生物より生物の方が遥かに重要なものだったから当然のことだった。

 近代科学思想は、この生物的世界観を打破して、世界は目的ではなく、客観的で普遍的な無機的な法則にしたがって動いているとみなすことで成立した。ガリレオ、デカルト、ニュートンなど偉大な近代思想家は、キリスト教を信仰しながらも、そのことを強調した。

 世界は確かに近代科学思想が描き出したようなものだ。(注2)これまで述べたきたとおり、その世界観のもとで人類は格段の進歩を遂げた、そして、これからもその世界観の下で暮らしていく。とはいえ、近代科学や技術は、ややもすると、機械的な世界観を強調する余り、生物学的なアナロジーや目的論の一定の有効性を十分に評価しない嫌いがあった。ヘーゲルやベルグソンの異論もそこに根ざすものであることを忘れてはならない。さもないと、ヘーゲルやベルグソンは単なる蒙昧な人間ということになってしまう。

 現代でも、人間にとって一番重要なのは人類を筆頭にした生物である。遥か彼方のブラックホールやビックバンの瞬間も確かに興味深いが、生物に対する興味や共感に較べれば二次的なものに過ぎない。人間はそういう風にできている。人間は単なる機械ではない。人間のこの特質は、宗教や人生に関する問いや芸術だけではなく、科学研究にも影響する。どんな研究分野でも、研究者たちは生物的なアナロジーを適宜援用しながら、問題を整理し、研究方法を探っていく。生物的なアナロジーの中心は「目的」という観点である。

 それゆえ、科学研究において「目的」という概念は、いまでも発見法的な観点並びに記述法として十分有益である。アリストテレスの学問的方法論は今ではほとんど顧みられることはないけれど、人間そのものはアリストテレスの時代とほとんど変わらない。アリストテレスは近代科学により否定され葬り去られたと考えるのではなく、科学への最初の第一歩を踏み出した偉大な人物の一人に数えられるべきだろう。



(補足)本稿には「近代科学思想」とは何であるかという説明が不足していると指摘されよう。近年の反科学的な傾向を包括的かつ根本的に批判して、近代科学思想を擁護するためには、まず近代科学思想の実質を詳細に分析する必要がある。だが、本論程度の分量でそれをおこなうことは無理である。詳細については別の機会に論じる。ただし、そこでも、私の結論は変わらない。

(注1)「合目的的」という言葉は変に感じる人が多いだろう。「的」が一個多いように思えるのだ。実は、私もその一人だ。だが、「目的」に、「合う」(「合」)、ような(「的」、)と考えると、「合目的的」で正しいことになる。「合目的」だと、「目」に「合」、ような(「的」)ということになって意味をなさない。だけど、こんな変な日本語は使わない方がよいと思う。ここでは、旧来の書式に従い「合目的的」という表現を使用するが、別の言葉を提案したいところだ。

(注2)私たちが存在する現世が完全に物理的な世界であったとしても、その一方で霊魂が支配するあの世が存在することは常に可能である。つまり、近代科学思想を全面的に肯定しながら、同時に、神やあの世の存在を肯定することができる。そこには矛盾はない。事実、デカルトなど近代思想家の大部分はそうだった。現代人の多く、とくに無宗教な日本人は、神、天国や地獄などをあっさりと否定するが、実は否定する根拠はない。ただ、肯定する根拠がないだけだ。パスカルはその著「パンセ」で、神が存在する方に賭けるべきだと述べているが、案外正しいように思える。神やあの世がないとすると、純粋な物理法則に従う物質的世界である現世に何の意義があるのかよく分からなくなるのではないか。ウィトゲンシュタインも、「自分が生きるに値しないのは神を信じることができないからだ。」というようなことを述べている。

(H15/8/12記)


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