☆ 資本論に学ぶ ☆

井出 薫

 金融危機で資本主義に疑問を感じる者が増え、マルクス「資本論」に注目が集まっている。ほぼ1世紀半前の著作であるとは言え、そこから得るべき教訓は少なくない。

 マルクスは「資本論」で貨幣をG、商品をWとして、資本を次のように定義する。
【定式1】「G→W→G’(=G+ΔG:ΔG>0)、G<G’)」
安く買い、高く売り利益を得る、これが資本の第一の定義だ。ここからマルクスは資本を「自己増殖する価値体」と呼ぶ。現代経済学や経営学が資本を生産財や貸借対照表の自己資本の部などストック概念として定義するのと対照的にマルクスはフロー概念として資本を定義する。そして資本主義とは資本が社会全体を支配する体制のことだと論じる。

 マルクスの定義の正しさは容易に理解できる。資本家や企業は利益(利潤、利子、配当、地代など)を得ることが期待できる時初めて、投資をして経済活動を開始する。利益が得られない時には活動は停止する。現代の資本主義社会では政府やNPOの役割も決して小さくはないが、社会を維持する原動力が利益を求める民間企業の活動であることに変わりはない。それゆえ「G→W→G’(G<G')」で定義される資本が社会を支配していることは紛れもない事実だ。政治や法、文化、思想なども資本が主導する経済活動が円滑に遂行されているときに限り有効に機能する。経済が完全に崩壊すれば法も正義も意味をなさなくなる。

 しかし、マルクスは、この単純な資本の定義は本当の意味での資本を表現するものではないと論じる。安く買い、高く売ることがいつもできるとは限らない。また、安く売った者も高く買った者も損をしており、社会全体では利益はゼロになる。この形態では資本が社会を支配し発展することはできない。労働力と生産手段を購入して生産活動を遂行することで初めて資本は本当の意味で資本となる。つまり資本の真の姿は次の定義で示される。(生産手段をPm、労働力をAとする。)
【定式2】「G→A+Pm→生産過程→W→G’(=G+ΔG:ΔG>0)、G<G’」
生産過程は労働力と生産手段の価値の和を超えた価値を持つ商品Wを生み出す。その結果、G<G’つまりΔG>0が実現する。ここでは誰も損をする者はいない。すべての者が正当な対価を得て、なお且つ、資本家や企業は利益を得ることができる。この形態において、初めて本当の意味で資本は社会を支配し発展することができる。このような社会を資本主義と呼ぶ。そして現代社会はまさしくこの意味で資本主義社会なのだ。

 なぜ生産過程で利益(「資本論」においては剰余価値と呼ばれる)が得られるのだろう。それは労働者が担う労働力という商品はその価値以上に労働をすることができるからだとマルクスは説明する。労働者が例えば8時間労働をすると、そのうち4時間が自分の労働力を再生産する(つまり生活していく)ために必要な労働時間(必要労働時間)で、残りの4時間は資本家のための労働時間(剰余労働時間)であり、この剰余労働時間が資本家や企業の手に入り、資本家や企業は労せずして利益を得る。何故なら商品交換の原則(=等価交換)に従い資本家や企業は労働者に4時間分の労働に相当する賃金を支払えばよいからだ。労働力の価値(=労働力の再生産つまり生活を維持するために必要は消費財の価値の総額)は4時間の労働に相当するから、資本家や企業は労働者を騙して労働力を安く買い叩いているのではない。商品交換の原則(=等価交換)の観点からは資本家や企業は労働者に正当な対価を支払っている。従って詐欺ではなく正当な経済活動として資本家や企業の手に利益が生じる。要は労働力という商品はその生産(労働力の再生産)に必要な労働時間を越えて労働をすることができるという比類なき商品なのだ。そしてここにこそ剰余価値を資本家が手にすることができる秘密がある。これがマルクスの説明だ。そしてマルクスはこの(剰余価値理論と呼ばれる)理論に基づき、資本主義とは労働者の剰余労働を搾取することで成立している社会であり、革命により資本主義体制を打破して、真の意味で社会の主人公である労働者が支配する共産主義社会を実現しなくてはならないと説き、さらに一歩進んで歴史の必然的な法則が共産主義革命へと社会を導くと主張した。
(注)「資本論」を読んだことのない読者には資本家が労働者に正当な対価を支払っているという主張と、資本家が労働者を搾取しているという主張は矛盾していると思えるかもしれない。しかし、それは違う。人間の労働力が資本主義体制の下で商品化されているところに問題がある。生活の糧を得るための生産手段を持たない労働者は自らの労働力を労働市場で商品として売るしか生きる道がない。言うまでもなく労働力を労働者から切り離すことはできない。労働力は本来尊い人格的存在であり単なる物に過ぎない商品ではない。ところが資本主義社会では労働者は、奴隷や封建時代の農奴のような身分的な拘束はないとは言え、生きるために労働力を売って賃金を得るしかない賃金奴隷であることを余儀なくされている。確かに商品交換の観点からは資本家や企業は労働者に正当な対価を支払う。しかしそもそもこの資本家と労働者の商取引関係そのものが搾取関係になっている。これがマルクスの告発だ。

 マルクスの理論には多くの難点がある(それについては本稿では論じない)。資本主義を専ら労働搾取の体制とみなす立場に筆者は賛同しない。しかし生産過程を媒介項とすることで初めて
【定式3】「G→(媒介項)→G’(=G+ΔG:ΔG>0)、G<G’」
が実現するというマルクスの指摘は紛れもない真実だ。世界中の全ての人が株取引に現をぬかして誰も労働しなければ、口座に膨大な預金がありながら全員が飢え死にする。人が生きていくために欠かせない財を額に汗して働き生産する労働者がいて初めて社会は維持され発展する。貨幣や有価証券や権利書はそれ自体では社会のために何の役にも立たない。

 ここで、もう一度資本の定義をよく眺めてみよう。資本の本質はG<G’(つまりΔG>0)にある。だからこそ資本は自己増殖する価値体として定義される。このことは資本家や企業にとって、定式3が示す媒介項は何でもよいことを意味する。利益さえ得られれば、媒介項は生産過程ではなく、先物取引、金融派生商品、土地等不動産、為替、何でもよい。

 それゆえ、資本主義においてバブルが発生し定期的に崩壊することは不可避と言わなくてはならない。労働力を必須の要件とする生産過程では労働者の抵抗(賃金や労働環境の改善要求、さらには社会体制の変革)が常に存在する。これは資本家や企業にとっては実に厄介な存在だ。だが不動産や貨幣は何も文句は言わない。だから生産過程を介在することなくバブルで儲けることは最も楽で、しかも事が順調に運べば最大の利益が得られる。だからバブルの発生は資本主義の必然と言わなくてはならない。しかし、その一方で、資本はあくまでも定式2つまり生産過程を媒介することで初めて社会を維持・発展する原動力となる。それゆえバブルは定期的に必ず崩壊する。

 この忌々しいバブル発生・崩壊を、資本主義体制を維持しながら回避する方法はあるだろうか。無いと考える。なぜなら、たとえ幻想的な形態に過ぎないとしてもバブルでのボロ儲けこそが資本主義を活性化する最大の原動力だからだ。ゴールドラッシュ、アメリカンドリーム、ジャパニーズドリーム、それは全て所詮バブルだ。どんな優れた人間でも一般労働者の百倍、千倍の報酬を手にする能力も資格もない。だが、この馬鹿げた巨額の報酬を得る可能性があるからこそ、巨大なリスクを背負ってでも人は賭けにでる。そして膨大な数の破産者とごく少数の巨万の富を得た成功者を歴史に刻み込みながら、この賭けが資本主義という社会体制を世界的規模にまで伸し上げた。この賭けを禁止すれば資本主義は停滞し、世襲化した政治家と高級官僚が支配する発展のない社会へと堕する。

 バブルは資本主義発展に不可欠であるがゆえに回避することはできない。バブルを克服すべき社会の欠陥と考えるのであれば、資本主義を超える道を探すしかない。それが「資本論」の教えだ。
(注)「資本論」はバブルの必然性を説いているわけではないが、「利子生み資本」に関する考察はバブルの必然を示唆している。


(H20/11/28記)


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