☆ 経済学への疑問 ☆

井出 薫

 経済学の教科書を紐解くと、「完全な自由競争の均衡点としてパレート効率が実現される」、「任意のパレート効率が適当な初期条件の下で完全自由競争の均衡点として実現される」と書いてある。市場経済で完全な自由競争が行われるときに最適資源配分つまり最も効率的な経済活動が実現されると主張するこれらの定理は現代経済学の基礎となっている。教科書ではパレート効率が社会的衡平に適うかどうかは別問題であることを補足説明しており、経済効率だけで社会の良否を判定できないことを経済学は弁えている。しかしながら、自由競争の下で最適資源配分が実現されるという経済学の基礎理論は、現代経済学とそれに基づく経済政策に決定的な役割を果たしている。この基礎理論から「市場」の有益性が宣言され、政府の介入や規制が一般的に資源配分の歪み=不効率を生み出すと主張されることとなり、それが経済政策に反映され世界の人々の生活と考え方に大きな影響を与えている。従って、この基礎理論が本当に妥当なものであるか検討することは極めて重要な課題になる。そこで、経済学のど素人が甚だ不遜なことをしているのは覚悟の上で、現実的な側面と原理的な側面に分けて、この基礎理論を簡単に評価してみようと思う。

 現実的な側面については、多くの業界で大企業が市場を支配し完全自由競争にはほど遠いこと、また完全自由競争が実現される見込みもないことを指摘するに留める。ただ、この点だけでも、自由競争が最適資源配分を実現するという定理を基礎とする経済学の妥当性には疑問符が付く。現代の寡占状態はしばしば過去の自由競争の産物であり、自由競争における最適資源配分実現という定理は不毛な抽象ではないだろうか。なぜなら自由競争で最適資源配分が実現されるのならば何故それが寡占へと向かうのか、何故逆に政府の介入なしには競争が実現されないのか説明が困難だからだ。現実の経済をみたとき、経済学のこの基礎理論は、力学における(摩擦がない場合の)等速直線運動のような正しい抽象となっていないと言わざるを得ない。

 原理的な面で見ると、常に変動している市場の中で均衡点が実現しうるのか、どのような条件の下で均衡が実現するのかという問題がある。この点については経済学の専門家による膨大な研究がある。それを評価することは筆者の力量ではとても無理なのでそれについては触れない。但し確実に言えることは、需要曲線と供給曲線の交点として表現される均衡点は数学的にも必ずしも実現されるとは限らないということだ。そのことを考えると、純粋理論的にも、完全自由競争の下で最適資源配分がなされると主張することには疑問が生じる。それに伴い、政府の介入や規制が一般論的に資源配分の歪みをもたらすと主張することの妥当性も怪しくなる。

 だが、より大きな問題点は基礎理論の基盤である需要関数と供給関数を適切な理論的抽象物と考えてよいのかという点だ。需要関数は各消費者や生産手段を購入する企業など買い手の限界効用を加算したものとして定義される。現実と異なる価格で財が売られている場合にどれだけの需要があるかを算定することは現実的には不可能だ。消費者や企業に聞き取り調査をしたところで調査方法や調査時期で結果が異なり確かな結論は得られない。勿論需要関数はあくまでも理論的産物だと主張することはできる。だが経済学がしばしば引用する力学の理論では、理論的な抽象物である引力と反発力をそれぞれ個別に測定することが可能であり、引力と反発力の均衡点を理論的に予測することができる。つまり力学では理論的な抽象物が現実と一定の対応関係を持つことが証明できるが、経済学の場合は不可能であり、それゆえ需要関数の存在を想定することの正当性は論証できていない。供給曲線は企業や私的生産者の生産費用と利潤を表現するもので需要曲線よりは現実との対応関係は確実性がある。しかし現代社会の重要課題である環境、資源、貧困、ストレスなど外部不経済と呼ばれる社会的費用を考慮すると、需要関数の存在を想定することの妥当性にも疑問が生じる。こちらも不毛な抽象である可能性を否定できない。

 結局、需要関数と供給関数という経済学の基本的な用具は、需要・供給の変動と価格の変動が一般的に連動するという事実を、減少関数(需要関数)と増加関数(供給関数)をグラフに描いて説明するということ以上の意義を持つものではない。経済学が専ら抽象的な数理学的学科であれば、限界効用と限界費用を基礎に精緻な数学的モデル構築を目指して競い合うだけで一向に構わない。だが経済学が現実の経済政策さらには政治的決定にまで巨大な影響を及ぼしている現状を鑑みるとき、現代経済学の基礎が不確実であることを指摘しないわけにはいかない。

 このように現実的にも原理的にも現代経済学の妥当性には疑問が多い。これに対して、経済学が物理学などと比較して若い学問分野で理論が未熟だからという説明がしばしばなされる。しかし、この説明は経済学など規範的な性格を有する社会科学と自然科学の違いを軽視していると言わなくてはならない。自然現象は基本的に(量子論や統計力学のような確率論的な必然を含めた)必然的な自然法則により表現される存在だが、社会現象は違反可能な規則で表現される存在であり、両者の間には単なる量的な差異ではなく本質的な差異がある。それゆえ、理論の確実性、予測の精度や対象の制御能力において、経済学が自然科学の水準に達することはありえない。又、社会科学がイデオロギー性を帯びることも避けられない。なぜなら人は(法や社会的規範など)諸規則を不当だと考えそれに意図的に違反することが常に可能だからだ。

 勿論このことは経済学が役に立たないとか、単なるイデオロギーだとかいうことを意味しない。経済学は人々の行動を説明するのに有効であるし、経済学理論を応用した経済政策が功を奏することは珍しくない。しかも需要・供給関数を使ったモデル以外で経済活動を簡単に説明できる有効なモデルは今のところ存在しない。

 そろそろ纏めに入ろう。現代経済学には多くの疑問符が付くが、その有効性を否定することはできない。自然科学が必然的で人間の意識から独立した客観的法則として自然現象を表現するのに対して、経済学を含む社会科学は社会を規則の集積体、そこでは常に倫理的な判断が行われる存在として表現する(べきだ)。それゆえ現代経済学のように高度な数学を駆使しても二つの学問分野の本質的な差異を解消することはできない。対象そのものに解消できない本質的な差異が存在するからだ。こう言ってもよいだろう。自然科学は説明と予測・制御のための学問、社会科学は人々を説得し、納得するための学問だと。その意味で経済学は大成功している。しかしながら、その一方でその基礎には多くの問題が潜んでいることを忘れるべきではない。

(補足)
 最後のパラグラフで簡単に論じた自然科学と社会科学の本質的な違いから、経済学を評価するときには、物理学を評価するのと同じ方法では駄目で独自の評価法が必要となることが示唆される。物理学では理論の予言を実験や観測結果と照合するのが良い評価法だが、経済学をこういう方法で評価することには問題が多い。経済学は本質的に予測と制御を目指す学問ではないからだ。「経済学者の予測はちっとも当たらない」と不満を漏らす人が少なくないが、それは無いもの強請りだと言えよう。寧ろ、経済学者を批判するときには、「経済学者は人々を説得することに成功していない」と述べるべきなのだ。それゆえ経済学者は研究室に籠って理論研究だけに没頭するわけにはいかない。常に自分の理論を広く世に問う必要がある。経済学者とは、市民との対話に臨み、その理論で市民を変え、逆に市民により理論の修正を迫られる、そういう弁証法的存在なのだ。読者にはこの点に注意するように促したい。

(H20/11/8記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.