☆ 意識の謎を解明できるか ☆

井出 薫

 意識は不思議だ。意識などなくとも人間と全く同じことができるロボットを原理的には作り出すことができる。なぜ意識などあるのだろうか。

 意識を研究するにはどうすればよいか。意識現象と脳の働きの対応関係を調べれば、ある特定の意識現象が生じているときに脳に何が起きているか、逆に何が脳に起きると意識現象が生じるか科学的に解明することができる。しかし意識にはこのような普通の科学的な研究方法では解明できない側面がある。それはロボットとの対比で明らかになるとおり、「なぜ意識なるものが存在するのか」という問題だ。生物が生きていくために必要なことは自己増殖、代謝、外界への適応であり、そのために別に意識など必要ではない。バイオ素材からなるアンドロイドは自然の中で自己増殖、代謝、適応、進化ができる。だがアンドロイドに意識は必要ない。適切なプログラムが内蔵されていればよいのだ。

 原点に戻って、意識の特徴を考えてみよう。ブレンターノとその弟子フッサールが着目したのが「志向性」だ。意識は常に「何かへの意識」であり、何もない純然たる孤立した意識などない。「空を見る」、「数学の問題を考える」、「デートの段取りを練る」、「友人に気が付く」など、意識は常に何らかの対象を志向している。それは内観すれば容易に分かる。私は何かを考え、思いだし、感じている。そこに必ず「何か」、意識が志向する対象が存在している。但し、この「対象」は実在している必要はない。歴史上の人物や亡くなった親族や知人の思い出、ユニコーンやゴジラのような架空の存在でも良い。また数学の方程式のような抽象的な存在も含まれる。いずれにしろ、(広義の)対象を含み、それを志向しているということが意識の本質的な特徴であることが分かる。さらに意識の本質的な特徴として「クオリア(感覚質)」を取り上げる者もいる。ただこれも「私が何かを感じている」ということであり志向性の一つの現れと言ってよい。(注1)
(注1)フッサールは、意識の志向性を「ノエシス」という志向作用として捉え、意識の感覚的側面はヒューレー的素材とし両者を区別している。厳密な学を求めるフッサールは専ら前者の解明に精力を注いだ。そしてノエシスという作用が志向するものをノエマと称し実在する対象とノエマが別物であることを指摘し、志向性の対象が実在する者に限らないことを巧みに説明した。ちなみに「ノエマ」とは、フレーゲが論じた名前の(指示対象とは区別される)「意義」あるいは伝統的な論理学では「内包」(言葉の場合は「意味」に相当)と呼ばれるものを拡張したものと考えればよい。なお、フッサールが明らかにしたノエシス的作用(ノエマを含む)とヒューレー的素材は志向性の二つの側面と捉えればよく、本稿のように意識全般を簡単に論じる際には特段両者を区別する必要はない。

 課題は、この意識の志向性をどのように研究すればよいのかということだ。フッサールにとって、このような意識の志向性は所与の事実、その哲学的探究の出発点であり、この志向性を科学的に解明することなど問題にならなかった。フッサールに尋ねれば、志向性から出発することで科学の正当性が基礎づけられるのであり、科学で志向性を解明することは問題にならないと答えただろう。多くの哲学者が同じような立場を採っている。科学至上主義に陥りがちな現代人にとって哲学者の立場は理解しがたいかもしれないが、科学が成立するためには(科学では証明できない)無数の前提があること(注2)、意識は物質世界とは全く異質な性格を持つことを考えれば哲学者の主張が一定の説得力を持つことは間違いない。とは言え、意識現象を完全に科学の埒外にあると考えることにも異論がある。最近はテレビでもお馴染みの茂木健一郎氏は盛んにクオリアの科学の構築を提唱している。クオリアは主観的であるが、主観的な出来事でも私たちは互いに理解することができる。だから科学的な研究がクオリアを解明できないとする明確な根拠はない。また全ての科学的認識は意識を経由するからと言って、意識は科学の前提であり、科学が解明することはできないとする哲学者の議論もさほど説得力があるものではない。実験装置なくして科学的認識は成立しないが、実験装置そのものは科学の対象とはならないということはない。実験装置はまさしく科学の対象そのものだ。意識もそういう実験装置の一つだと考えることができる。
(注2)たとえば、宇宙は私の空想物ではなく実際に存在する、宇宙は普遍的な物理法則に従う、正しい物理法則は明日も成立する、目の前の実験装置は夢ではなく現実に存在する、実験装置は目を瞑れば消えてなくなり目を開けると再び現れるなどということはない、私と他人は同じ人間で互いに理解できる、など科学が正当化されるためには無数の前提が必要となる。そして、これらの前提の正しさを科学はけっして証明できない。なぜなら常に科学の証明はこれらの前提を暗黙のうちに使用しているからだ。つまり、科学による証明は必ず循環論法に陥る。「これらの前提が正しい」ならば「科学は成立する」、「科学は成立する」ならば「これらの前提は正しい」という具合に。

 しかしながら、「志向性」をコンピュータや実験装置でシミュレーションすることは難しい。何が実現されれば「志向性」をシミュレートしたことになるのか分からないからだ。ロボットが手前にある様々な物体をアームで操作するようにプログラムすることは容易にできる。精巧なロボットを製造すればその手並みは人間に引けを取らないだろう。この場合、ロボットと操作する物体との間に志向的な関係があると言えるだろうか。確かにロボットの活動は目の前の物体を志向している。だがそれは単に外面的な相互関係を表しているに過ぎない。私たちが解明しようとしているのは「意識の志向性」であり、外面的な相互関係ではない。

 こうして志向性をシミュレーションする方法は全く分からない。だとすると志向性をその本質的特徴とする意識を解明する手掛かりは簡単には得られない。物理学では数学を使用し実験困難な領域(宇宙や素粒子)の研究を遂行している。だが物理学研究では、ほとんどの場合実験は技術的に困難なだけで原理的にはどのような実験をすればよいかは分かっている。また、どのような実験をすればよいか分かっていないときでも、既存の理論との整合性や数学的整合性を主要な指針として合理的に研究を進めることができる。しかし、意識はそういう訳にはいかない。実験はできないし、数学的整合性に頼ることもできない。

 志向性については論理分析哲学者などから言語分析で解明できるという指摘がなされることがある。しかし言語研究そのものが曖昧であり、また常識的に意識とは言語に先立ち存在すると考えられるので、言語研究で意識が完全に解明されるとは考え難い。言葉を知らなくても人は意識があるし、言葉で語ることが難しい感覚や気分が意識現象には無数に漂っている。このように考えていくと、現状では意識の志向性を解明する手掛かりはないと言わなくてはならない。

 さらに、志向性は意識の本質的特徴であるがそれで意識が尽くされる訳ではない。志向の対象があるとは言い難い漠然として気分の存在、急に襲い来る不安感、杖を突いて歩いている人が杖と手の間に圧力を感じるのではなく杖の先に圧力を感じること、脚を失った人が存在しない脚に痒みや痛みを感じることがあること、空気振動が音声として意識されること、電磁波の入射が物の色、形、質感として意識されること、これらの事実は志向性という観点だけでは説明できない。

 こうなると、意識を科学的に解明することは益々困難だと思えてくる。そのことが未だに意識現象の考察が哲学の主要課題になっている理由でもある。実際、哲学者は哲学こそ意識を解明する学だと主張するかもしれない。とは言え、専ら言葉や論理の分析に終始する哲学に、意識という物質とは異質だが物質に劣らずリアルな存在を解明できるはずがない。意識を解明できるとしたらそれはやはり哲学ではなく科学であるはずだ。

 残念ながら、現時点では意識の科学的な研究は、その方法すら分からない段階に留まっている。意識があるときに何が脳で起きているかの研究はすでに大きな進展を見ている。だが意識の存在理由と脳という物質から意識という異質なものが出現するメカニズム、この二つの最大の謎を解く目途は全く立っていない。

 おそらく今後科学が進歩しても、科学にできることは、意識現象が生じるときに脳で何が起きているのか説明することに留まる。それを超えて、意識なるものの存在を根源的に理解すること、なぜロボットは意識なしで何でも出来るのに人間には余計とも思える意識現象が存在するのか、意識は何故専ら主観的なものとして現れるのか、という類の問いに科学は答えることができない。科学的知見、哲学的考察、芸術作品、社会的諸活動、そして何より私自身の実体験、これらを通じて私たちは意識とは何であるかを(漠然とではあるが)分かっている。だが、それ以上のことは分からない。少なくとも現在のところは、意識の存在は解明することも解消することもできない所与の事実として考えるしかない。そして、おそらく将来もこの状態が変わることはない。意識が何故あるのかと問い続ける限り、意識は永遠の謎に留まる。

(補足)
 科学が進歩しても、科学では意識が解明できないと考えられる理由は稿を改め論じる。

(H20/11/8記)


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