☆ 貨幣の謎 ☆

井出 薫

 マルクスは、アリストテレス以来偉大な思想家たちが貨幣の謎を解明しようと虚しい努力を重ねてきたと皮肉っている。マルクスは自著「資本論」で展開した価値形態論とそれに続く貨幣分析で貨幣の謎を解いたと自負したが、マルクスにより貨幣の謎は解明されたと考える者はよほどのマルクスの信奉者以外にはいない。実際、マルクスの価値形態論や貨幣論に関する解釈は無数にあり、意見の一致をみることは全く期待できない。もしマルクスが謎の解明に成功したのならば、このような状況が生じるはずはない。

 商品の売り手と(貨幣の持ち主である)買い手、両者は決して対等な関係ではなく、売り手は命がけの跳躍をしないとならないとマルクスは論じている。なぜなら売り手は商品が売れるかどうか不確実でありながら事前に貨幣を投じて仕入れをしなくてはならないからだ。柄谷行人はマルクスの考えを丸ごと継承して、その著「マルクスその可能性の中心」などで、買い手つまり貨幣の持ち主の優位を解く。これに対して、岩井克人は、貨幣には本来何の価値もなく無根拠な存在であり、単に商品流通を媒介しているという事実から価値があると人々が思い込んでいるに過ぎないと指摘する。岩井の立場からすれば、買い手=貨幣の持ち主が優位に立っているという考えは幻想に過ぎず、寧ろ売り手ではなく、買い手=貨幣の持ち主の方こそが命がけの跳躍を試みないとならないことになる。つまり貨幣が幻想に過ぎないのであれば、それで物が買えるかどうかは分からない。

 資本主義経済が順調に動いているときには貨幣は絶大な力を有する。堀江ライブドア元社長が図に乗って「金で人の心を買える」と豪語したのも無理はない。確かに貨幣は強く、その意味でマルクスと柄谷は正しい。だが第一次世界大戦後のドイツを襲ったハイパーインフレでは、貨幣の信用は底をつき、貨幣の価値などどこかに吹っ飛んでいった。敗戦直後の日本人を襲った紛れもない事実は、貨幣よりも食糧の方が断然強いという身も蓋もない唯物論的現実だった。戦前は腰が曲がり目も伏せがちだった貧しい農民が肩をいからせ、かつての金持ちやエリートたちを睥睨した。いずれにしろ生き物である人にとって最後の砦は食べる物であり貨幣ではない。信用不安で世界は大騒ぎになっているが、そんなものは大したことではない。本当の危機は食べる物がなくなったときなのだ。このことを考えると寧ろ正しいのは岩井の方だと言うことになる。

 貨幣の謎とは「貨幣とは何者なのか。なぜ貨幣は斯くも強大な存在として私たちの前に立ちはだかることができるのか。」ということに尽きると言ってよい。貨幣が余りにも当たり前の存在となっている現代人にとって、貨幣は謎でも何でもなく、あたかも宇宙の存在が所与の事実であるように、貨幣の存在とその力は所与の事実と暗黙のうちに仮定されている。だが人間は宇宙の中で生まれた存在だが、貨幣の中で生まれた存在ではない。それが社会に満ち溢れ人の行動と思考を支配していると言っても、それが人工物に過ぎないことに変わりはない。その人工物が何故斯くも強大なのか、国家や民族あるいは宗教という絶大なる力で人々を支配するイデオロギーすらも貨幣の前には跪くことになるのは何故なのか。これを解明すべき謎と言わずして、何が謎と言えるだろう。貨幣の存在は最大級の謎として私たちの前に屹立している。

 金融危機、信用不安という現実を前にすると、貨幣の無根拠性という岩井の主張の説得力が否応なく増してくる。貨幣は無根拠な存在で係留すべき場所がなく常に暴走する危険性を孕む。それは如何様な形態でも取ることができ、事実、金融工学なる最新の経済理論を援用して設計開発された金融商品という誘惑に人々は踊らされ苦境に立たされている。

 だが岩井の考えは間違っていると思う。貨幣は無根拠ではない。貨幣の存在とその力には確かな根拠があり、マルクスや柄谷が言うとおり、命がけの跳躍をしなくてならないのは貨幣を求める売り手の方なのだ。社会という存在は分業をその本質とする。生命は本質的に分業体制を取る。生命誕生のごく初期、微小な原核生物だけが暮らす時代からすでに光合成独立栄養細菌、化学合成独立栄養細菌、従属栄養細菌などが相互に関連しあって生態系を維持してきた。そして生物進化の過程で分業体制が支配的になる切っ掛けが性の分離、有性生殖の誕生だ。雄と雌、どちらが優位かは別にして、両者の対立と共存がまさに生態系に本格的な分業体制を導入することになる。さらに、ここに子育てというシステムが現れるに至り分業は決定的なものとなる。子育ては家族という集団を生み出し、さらに複数の家族が群れをなすようになることで、分業は「社会」という名に相応しいものへと近づいていく。

 分業体制では共同体の各個体は他の個体のために生産して、その一方で他の個体の生産したものに依存して生きる。交換の始まりだ。アダム・スミスなどは人間を交換することを好む動物と捉えたが、交換は別に人間固有の現象ではなく生命体一般にみられる普遍的現象と捉える必要がある。つまり人間社会における交換という活動は生物学的な根拠を持つ。

 共同体がごく少数の成員からなり活動範囲が限られていた時代には交換を媒介するものは不要だった。だが共同体の成員数が増大しその活動範囲が広くなり、さらに他の共同体との交流が始まるとともに、交換は媒介物なしには成立しなくなる。これが貨幣の原点だ。そして貨幣の登場とともに、生物学的な交換は人間固有の社会的な交換となる。貨幣の誕生こそが、人が自然から離れ人間固有の社会へと進みゆく道を用意する。

 貨幣の登場により、人の集団は社会となり、生物学的な交換は社会的活動としての交換へと変容する。だが、それでも、その背景になり、その準備をしてきたのは生物進化の過程であり、そこには生物学的な根拠が確かに存在する。現代の高度に抽象化・記号化した貨幣においても、その出発点である生物学的進化という確固たる基盤が解消された訳ではない。岩井は貨幣の無根拠性を前提にして貨幣を誰も信用しなくなり貨幣の価値がなくなる可能性を指摘する。だがそれは全く非現実な想定だと言わなくてはならない。貨幣を誰も信用しない可能性とは、あらゆる食物に毒が混入していると人々が信じて全員が餓死する可能性があると言うのと等しい。確かに論理的にはあり得るし、短期的・局所的にはそういう事態が現実化することもありえる。だが、それが全面化することはない。食物がありながら毒があると全員が信じて全滅することがありえないように、貨幣を誰も信用しなくなることもありえない。−但し、個々の貨幣体系が信用を失い(物品貨幣を含めて)別の貨幣体系へと移行することは勿論ありえる。だが同じことは食物の場合にも起こりえる。ここでも貨幣と食物の並行性が確認される。−

 このように貨幣には根拠があり、それが完全に信用を失うことはない。だが勿論これで貨幣の謎が解かれた訳ではない。大きく分けて二つの問題が残されている。「貨幣が根拠を持つことは事実としても、貨幣が宗教、民族、国家などという強力なイデオロギー的装置に支えられると言うよりも、寧ろ貨幣の方がこれらの装置を支えていると見る方が正しいほどに貨幣が強力であるのは何故なのか」という問題、「貨幣が生物学的な根拠から出発しているにも拘わらず、貨幣が高度に抽象化・記号化して岩井が主張するような無根拠な存在であるかのような様相を呈するのは何故なのか」という問題、この二つだ。ここでこの二つの問題を解くことはできない。ただ、この問題の図式そのものに問題を解く手掛かりがあることを指摘しておこう。このような問題設定は現代の資本主義社会に生きる者だけができる。マルクスの時代にはこのような形で貨幣を問うことはできなかった。マルクスは「人は常に解決可能な問題のみを自らに課す。なぜなら問題は解決が可能となった時に初めて発生するからだ。」と「経済学批判」の序言で語っている。マルクスのこの言葉は必ずしも正しいとは言えないが、特定の問題は特定の時代においてのみ発生することは事実だ。超新星爆発とか元素の起源は量子論と相対論が発見された時代に初めて問題として意識される。現代の経済学的諸問題も現代という時代においてのみ現れる。だから、私たちはこう自問することができる。「なぜ、私たちはこのような形で貨幣の存在を問うのか」と。おそらくこういうシナリオが考えられる。貨幣には生物学的な根拠がある自然的・実体的側面と、社会という次元固有の抽象的・幻想的側面の二面性があり、資本主義の発展はこの本来不可分であった二つの側面を分離させ、抽象的・記号的・幻想的な側面を強調する傾向を持つのだと。勿論これは問いへの解答ではなく、問いの言い換えに過ぎない。貨幣の謎は依然として謎のままに留まっている。だが私たちは遂にその謎を解くことができる地点に到達しつつあるのではないだろうか。なぜなら初めて問題が正しく設定されたからだ。但し本稿ではその可能性を指摘することしかできない。



(補足)
 貨幣が斯くも強大な存在ならば、現在の金融不安は社会にとって致命傷になるはずで、筆者の議論は矛盾していると指摘されるかもしれない。だが金融システムへの信用が揺らいでも貨幣一般への信用は揺らがない。本稿は資本主義やその体制下での特定の金融システムが恒久的に安定していることを論じるものではない。それは当然崩壊しうる。だがそれでも人間社会は貨幣を使い(場合によっては資本主義とは違う社会体制かもしれないが)経済活動を続けていく。それを本稿は示している。


(H20/10/19記)


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