☆ 家族的類似性 ☆

井出 薫

 「家族的類似性」という観点はウィトゲンシュタインの数ある遺産の中でも最も実り多いものの一つだ。

 様々な机がある。人は「机」という一つの言葉があり、それが様々な机に使用されるとき、それらの机には何か共通の「机の本質」、あるいは「机性」とでも言えるようなものが存在していると考えがちになる。実際、アリストテレスは、種(生物だけではなく無生物も含む)には共通の本質があり、それを解明することが学問の役割だと考えた。

 だがウィトゲンシュタインは種に共通の本質が存在するとは限らない、共通の本質などなくとも(あるいは知らなくても)私たちは「机」という言葉で個別の机や一般的な概念としての机を表現することができる。誰かに「机の本質は何か」、「机の定義を述べよ」などと尋ねたら、その者は困惑するだけだ。人は言葉の正確な意味や定義を知らなくても、言葉を様々な違う場面、違う事物、違う人との会話に使うことができる。言葉の背景に本質が潜んでいると想定する必要はない。

 その典型として「ゲーム」という言葉を取り上げることができる。カード遊び、球技、経済学など異質な領域で「ゲーム」という言葉が使用される。しかし、その中にゲームの本質を見出すことなどできない。ただ「ゲーム」という言葉が様々な場面で使用されているという事実を指摘できるに過ぎない。

 その一方で、「ゲーム」という言葉が何にでも適用できるわけではない。使うことが相応しくない状況がたくさんある。電子と陽電子が衝突し消滅して光子が発生するとき、その反応をゲームと呼ぶ者はいない。重病人の手術をしている医師や患者の回復を祈る家族たちの行為をゲームと呼ぶことは誰もが拒否反応を示す。このように「ゲーム」という言葉は多様な使用を持ち、共通な本質を持つものではないが、それでも明確な境界線は存在しないとは言え、大凡妥当と思われている使用領域がある。そして、このことをウィトゲンシュタインは「家族的類似性」と呼ぶ。つまり様々な種類のゲームがある。どこか似たところがある。違いカードゲームはカードを使うところが似ている。勝負を競うところがカードゲームと球技は似ている。相手の動きや考えを読みながら、自分の行動を決めるという点で、市場における企業や消費者の行動は球技や麻雀と似ている。このように家族的類似性を通じて「ゲーム」という言葉の使用領域が広がっていく。だが、どこにでも広がっていくわけではない。類似点を見つけられないこともあり、そういう場合には同じ言葉を適用することはできない。無理に適用しても著しく不自然なものとなる。それゆえ言葉の広がりには家族的類似性が不可欠となる。このことが他の言葉でも成立することは容易に見てとることができよう。

 すべての言葉や概念の使用法が家族的類似性により決められ、本質などというものはないと言っているのではない。数学や物理学など精密科学においては言葉(用語)の定義は正確で、言葉が使用される領域は家族的類似性という曖昧な繋がりをしているのではない。だが、私たちが暮らす現実社会を見渡せば、本質や定義と呼べるような明確な基礎を有する言葉や記号はごく僅かで、大多数の言葉や記号は家族的類似性により社会の中で広がりを持つ。そして、私たちはそういう社会で暮らし、人々と交わり、他の人々と協力して生産し消費して生きている。それゆえ、私たちの社会を理解する上で「家族的類似性」という観点は極めて有意義と言える。

 しかしながら、「家族的類似性」そのものが曖昧で、それを学問で活用することは容易ではない。そもそも家族的類似性という観点が、同じ言葉が多様な対象や場面で使用されるという事実から導出されたと見ることができる。だがそうなると何を以って家族的類似性の指標にするのか答えられなくなる。「似ている者とは似ていることを意味する」と語るに等しくなってしまう。その結果、ウィトゲンシュタインが発見したこの実り多い観点も、哲学的議論でときどき引用されるだけで、社会科学の研究で顧みられることはほとんどない。

 だが、「家族的類似性」という観点は、自然科学の模倣あるいは類推により学問体系と方法論を構築しようとする傾向が強い現代の社会科学を改良するために極めて有効であるはずだ。社会とは自然に還元されるものではなく独特の存在性格を持つ。それは、必然的な法則で記述される自然と異なる、違反可能な規則で記述される存在だ。従って、社会科学の体系と方法は自然科学のそれとは決定的に異なるものとならざるを得ない。その違いを見出す手掛かりが「家族的類似性」という観点にある。規則とは無数とも言える多様な顔を持つ。厳格な規律と曖昧な規則、法律など明文化された規律と不文律の慣習、意識的な規則と文法規則のような無意識的な規則など、規則には実に多様な形態がある。しかも、具体的な規則には無数の変種がある。さらに規則は違反可能であることから分かるとおり恣意的だ。右側通行でも左側通行でもどちらでもよい。

 社会を特徴付けるのはこういう(法則のような厳格性を欠き、それゆえ逆に創造的である)多彩な規則の集積体だと言って良い。この規則の集積体を適切に理解するには「家族的類似性」という観点を援用することが極めて有益になる。「家族的類似性」、これをいかに活用するかが社会科学の重要な課題となる。

(H20/10/3記)


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