☆ 生命の跳躍 ☆

井出 薫

 生命体も非生命体も物理学的に見れば、原子分子の集合状態に違いがあるだけで、本質的な違いはない。一時期、生命体を複雑系という観点から理解しようとする立場が存在したが、複雑系は生命体だけではなく非生命体にも広く存在し、生命の本質を表現するものではない。物理学という地平に留まる限り、生命の本質を理解することはできない。物理学は自然科学や工学の全領域で基盤となる強力な道具であるが、全ての現象を物理学で説明することはできない。その典型が生命体と言えよう。

 生命とは何かという議論が盛んになされた時期があるが、便宜的な答えしか与えられていない。ベルグソンがその一例であるが、世界が物理法則で記述できることを認めながらも生命には物理現象には還元できない何かがあるという立場が多数存在する。

 本当に世界には物理法則では説明できない何かが存在するのだろうか。筆者の答えはノーでありイエスだ。全ての自然現象は物理学で説明できる。但し、それは世界を物理現象という平面に射影したときに限られる。この射影は1対1対応が可能でその意味で全ては物理学で説明できると言ってよい。しかし、世界は、物理現象という平面に射影された像で汲み尽されるわけではない。

 その典型として倫理・道徳を取り上げることができる。「正当防衛などやむを得ない事由がない限り、けっして人を殺してはいけない」という道徳命令は物理学から演繹することはできない。これは物理現象という平面に直交し独立した倫理・道徳という平面に属する。生命という現象も、それを構成する原子分子の次元で論じるのであれば物理学に還元できる。そこでは生物学を応用物理学の一分野とみなすことも可能だろう。だが生命という存在は物理現象の平面では表現されない面を有する。それは複雑系などいう概念で表現できるものではない。寧ろ、それは実に単純なのだが物理学では言い表せない、こう言った方がよいだろう。

(注)従って、このことから、科学と信仰は相反するものではなく、調和しうるものであることが示唆される。

 物質に還元できない何か(例えば霊魂)が世界に存在すると主張しているのではない。そうではなく、たとえ霊魂のような非物質的な何かが存在しなくとも、生命体と呼ばれる存在には物理現象の平面で描かれる像とは異質な側面があるということなのだ。

 生命体とて、他の物質と同じように物理法則で記述される物理世界に存在して運動する。その意味では、生命体が物理学に還元できない側面を持っているとは言っても、人間を含めて生命体は物理法則を超えた活動ができるわけではない。物理法則を変えることができるわけでもない。人は屋上から何の装備もなしで飛び降りたら地上に叩き付けられてしまう。念力で宙に浮いていることなどできない。

 それでも生命には生命固有の射影平面がある。だからこそ、その一つの領域として倫理・道徳という座標軸が存在する。地球上で最初の生命体が誕生した過程はまだ解明されていない。しかし生命へと進化する以前の様々な有機分子から最初の遺伝子や細胞が生まれた過程が物理化学で解明される日がいずれ来るだろう。だが、たとえ、その日が来たとしても、物理現象という平面とは異質な平面の存在が露わになるという生命固有の跳躍を物理学で説明することはできない。ベルグソンの創造的進化説に同意することはできないが、生命には「跳躍」という言葉が相応しい何かがあることは認めなくてはならない。それをどのように認識すればよいのか、どのように探究すればよいのか、多くの思想家や科学者が考えを巡らせてきたが答えは出ていない。いや、永遠に答えることができない問題なのかもしれない。ただ言えることは、このような生命固有の性質を探求し、その一領域として倫理・道徳という領野を切り拓いた者はおそらく地球上では人類だけだということだ。それゆえ「生命」とは優れて人間的な現象と言ってよい。しかしながら、だからこそ人間は地球の全ての生命に対して責任を負わなくてはならない。



(補足)
 ここでは問題の指摘がなされているだけで、物理学の平面と異質な平面とは何か、それはどのようにして生じるのか、それをどのようにして探究すればよいのか、このような本質的な問題には何も解答が与えられていない。これらはすべて今後の研究課題として残されている。ただ、研究の手掛かりとしてひとつだけ指摘しておこう。このような平面は、人間固有の高度に分節化された言葉と、その言葉と密接な関係があると推測される意識現象とにより初めて拓かれるということだ。「言語」、「意識」、「理解」、「表現」、「文字と像」、こういった主題から始めることで、問題解明の手掛かりが得られるだろう。

(H20/9/3記)


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