☆ ウィルス ☆

井出 薫

 ウィルスは複製のための設計図は持っているが、複製品を作る工場を持っていない。だから他の生物に寄生しないと増殖できない。他の生物に寄生する生物はたくさんいるが、普通は自分で複製工場を持っている。そんなところから、40年ほど前、ウィルスは生物か?という議論が盛んになされたことがあった。代謝、自己増殖、変異(進化)が生命の本質とされるが、自己増殖能をウィルスがどこまで有しているのか、この辺りが議論の的になった。

 今ではウィルスも生物の一つとして認められている。結局のところ、ウィルスが生物かどうかは生命の定義の問題で、一義的な答えはない。ウィルスを生物から排除するように生命を定義することもできるし、含めるように定義することもできる。生命を理解する上でどちらがより良い戦略なのか、生物学者たちの答えはウィルスも生物に含める方が良いというものだった。

 ウィルスは今でもホットな議論の対象になっている。新型インフルエンザウィルスなど医学的な観点から注目されるのは当然のことだが、生物進化を理解する上からもウィルスは重要な素材とされている。

 ウィルス以外の全ての生物の遺伝子はDNAだが、ウィルスではRNAを利用しているものが少なくない。現在の生物進化論では、DNAが遺伝子として定着する以前、生物がRNAを遺伝子として使っていた時代があるとするRNAワールド仮説が有力とされている。DNAはRNAより遺伝情報を確実に子孫へ伝えることができるが、蛋白質の助けを借りないと複製ができない。これに対してRNAは自己触媒機能があり、RNAだけで複製が可能になる。つまり、DNAを遺伝子として使うシステムは安定している代わりに非常に複雑な機能が要求されるが、RNAワールドは比較的単純な機能だけで済む。だから最初の生物界はRNAワールドだったという考えは理に適っている。

 ウィルスは他の生物と比較して極めて単純な構造と機能だけしか持っていない。そこで最初の生物はウィルスだったという考えが浮かぶが、設計図だけで工場を持たないウィルスは最初の生物ではなく生物進化の二次的な産物に過ぎないとする意見が強かった。しかしRNAワールド説が正しいのであれば、最初の生物はRNAウィルスだったということは十分に考えられる。さらに最近、他種のウィルスに寄生するウィルスが発見されている。この事実は、ウィルスはこれまで考えられていたよりも複雑な構造と機能を有し、単なる進化の二次的産物ではないことを示唆しているようにも思える。

 コンピュータウィルスという言葉が象徴するとおり、ウィルスは危険物という印象が強いが、生物進化を理解するうえでウィルスは欠かせない存在だ。人間は生物進化の過程で誕生し、その理性は生命という基盤の上で成り立つ。生命の原点にウィルスが位置するとしたら、ウィルスを理解することが人間理性の本質を解明することに繋がるかもしれない。



(H20/8/19記)


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