☆ 有性生殖の不思議 ☆

井出 薫

 細菌や原生生物に性の区別はなく単純に分裂することで増えていく。菌類は複相世代と子実体の形成という有性生殖的な増殖機能を有しているが、菌糸の伸張で無性生殖的に増殖していくのが普通だ。高等植物や高等動物になって初めて有性生殖が一般的になる。

 有性生殖がなぜ生じたのかよく分かっていない。無性生殖で増殖する方が環境に合わせて多数の子孫を残すことができるので生存に有利であるように思える。これに対して、「有性生殖は遺伝子組み換えの試みであり、遺伝的多様性を生み出す。その結果環境変化に適応しやすい。これが有性生殖の進化した理由だ。」という意見がある。確かに遺伝的多様性は自然選択の中で生き残っていくのに極めて有効な手段になっている。だが有性生殖には適当な異性を見つけ生殖行為をする必要があり、たくさんのエネルギーを消費する。また有性生殖は遺伝的多様性を生み出すとは言っても個体数が減少したり種の生息地域が分断されたりすると近親交配が起き遺伝的多様性は失われる。一方無性生殖でも絶え間なく突然変異が起きており遺伝的多様性は確保されている。次から次と新薬を開発しても暫くすれば必ず耐性菌が登場してくることがそれを証明している。果たして労力とリスクが大きい有性生殖に本当に進化上のメリットがあるのか疑問が残る。

 互いに愛しあうように神様が雄と雌を作ったというのが麗しい答えだと思うが、堅物の科学者は同意しないだろうし、宗教家からもいい加減なことを言うなと叱られそうだ。そうなると科学的に納得できる答えを探さないといけない。

 だが、何を明らかにすればこの問いに答えたことになるのだろうか。進化論が多くの誤解を生みだすのは、何を説明すればよいのか曖昧なままに議論を進めることが多いからだ。有性生殖を論じるときにもこの点に注意が欠かせない。特定の条件下で有性生殖が無性生殖よりも有利(=より多くの子孫を残す)と証明されたとしよう。これで問題は解決されたことになるだろうか。無数の生物種と無機的環境が複雑な相互作用をなす現実の生態系では、実験室や単純化された生態系のモデルでの結論が適用できる保証はない。抽象的なモデル・単純化された環境で有性生殖の優位性を論証しても、それだけでは有性生殖の誕生と一般化を証明したことにはならない。また生命進化の初期段階では有性生殖が存在しなかったことは確実で、生物進化のいずれかの段階で有性生殖が誕生したことになるが、たとえ進化的に優位性を持っていたとしても、進化過程で必ずそれが実現するとは限らない。なぜなら無性生殖と有性生殖の間には大きな壁つまり質的な差異が横たわり、その壁を乗り越えない限り、有性生殖は生まれないからだ。そのメカニズムを精確に解明できたとき初めて、本当の意味で有性生殖が誕生した理由を説明したことになる。しかし、これは極めて難しい。高等植物や動物でも無性生殖的な増殖様式を有する種は少なくない。しかも現実の生態系で支配的な位置を占めているのは、高等植物や動物よりも寧ろ細菌などの微生物で、そこでは無性生殖が圧倒的に支配的な増殖様式となっている。つまり有性生殖の優位性は一般的なものではない。だからなおさら有性生殖の誕生は謎となる。

 複雑な身体を持つ動物では有性生殖が圧倒的に多い。複雑で強靭な身体を持つことで有性生殖のリスクと労力を回避することができる。だがそれでもこれは有性生殖の可能性を示すだけで、有性生殖の必然性を論証することにはならない。たとえば人間が女性しか存在せず、女性が減数分裂しない生殖細胞を体内に宿し、胎盤の中で育てて出産することも、完全に可能なのだ。

 いずれにしろ現代科学では有性生殖誕生の謎は解明されていない。愛を生み出すために雄と雌に分かれたというロマンチックな答え、目的論的な答えを科学者は認めない。合理主義的な多くの現代人もこのような答えは文学的な表現としてなら認められるが、合理的説明ではないと考えるだろう。では将来、この問題に科学的に完璧な解答が得られる日が来るだろうか。多くの科学者はこれを肯定するだろう。だが現実問題としては完全な解決は困難と予想する。そして、それはそれで悪いことではない。科学的に未解明でロマンのある世界が残っていることは喜ばしいことではないだろうか。



(H20/8/2記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.