☆ 哲学的認識論 ☆

井出 薫

 認知科学と哲学的認識論は異なる。前者は人間が事物や学問、社会的規則などを如何に認知し自分のものとするかを問題とするが、後者は正しい知識とは何か、それをどうすれば得られるかを問題とする。

 両者の境界は必ずしも明確ではない。近代の哲学的認識論の創始者とも言えるカントは、正しい知識を得られる基礎として人類固有の生得観念に言及したり、感覚に与えられる多様で流動的な事物を統制する統覚という機能を想定したり、現代では認知科学で扱われる題材も議論している。同じことはヒュームやロックにも当てはまるし、ニーチェならばこのような区別は無意味だと言うだろう。

 とは言っても、人はしばしば錯覚するし、間違った理論や情報を信じることは日常茶飯事だ。認知科学は、人がどのように事物や理論を認識しそれに従った行動を取るようになるかを研究課題とするのであり、そこで生じた信念や習慣の真偽や善悪を問題とすることはない。それに対して哲学的認識論はあくまでも真(あるいは善)なる知識とは何か、それは如何にすれば得られるのかを問題とする。それゆえ哲学的認識論は認知科学に還元されない固有の研究領域を有している。

 正しい知識の源泉を何に求めるかにより、哲学的認識論は幾つかの立場に分かれる。知識の源泉は人間とは独立した客観的な自然の中にあるというのが一つの立場で、唯物論や実証主義の一部がそれに属する。また人間精神にこそその源泉があるという立場があり観念論、反実在論などが属する。また知識の正当性は社会で決まるという考えもあり、プラグマティズムや後期ウィトゲンシュタインをこの立場に属するとみることができる。

 どの立場が正しいか決めることはできない。いずれの立場も一定の有効性と限界を有する。自然科学は客観的な自然に強く制約される。だが量子論の定式化に様々な様式があること(行列力学と波動力学、正準量子化と経路積分など)、様々な階層で自然を理解する必要があること(素粒子・場、原子分子、細胞、生物個体、太陽系、銀河、全宇宙など)、人は自然に単純さと複雑さの両面を見る必要があることなどから、正しい知識の源泉を専ら客観的自然に求めることはできない。さらに社会現象や倫理に関わる問題は自然に答えを求めるわけにはいかない。

 人間の認識は常に人間精神の在り方に依存する。人間精神を個人の主観的なもの(カント)と捉えるにしろ、歴史と社会が共有する客観的なもの(ヘーゲル)と捉えるにしろ、知識とは常に社会において意味を持ち、それを各個人の精神が分有する。それゆえ、知識の妥当性とその獲得過程は精神の在り方に強く拘束される。しかしながら、精神だけでは何も生まれない。精神とは有機物質の運動の所産に過ぎないという考えもある。精神の役割を強調する立場は認識活動における人間の能動性を正しく指摘する点で有益だが、それだけでは哲学的認識論の諸問題を解決することはできない。

 認識の社会性を強調する立場は20世紀以降有力になる。前の二つの立場が真(あるいは善)の絶対的な基盤を求めるのに対して、この立場はより柔軟で、認識活動が社会的活動の一部であるという正しい理解の下で、認識活動の全般的な構造とそれが正当化される過程を事実に即して現実的に記述し分析する道を拓いた。しかし、この立場も全能ではない。この立場は注意しないと極端な相対主義に陥ることがある。たとえば「正しい認識とは要するに多数意見のこと」、「正しい認識とは個人と状況により異なる」などという見解がしばしば表明される。しかしこれでは哲学的認識論は単に多数派工作か個人の恣意の無制限な正当化に堕してしまう。認識の社会性を中心としながらも、認識の正当性や獲得過程における自然や人間精神の重要性を忘れることはできない。

 このように哲学的認識論は完成した体系になっていないし、研究の拠り所となるべき確かな道標すら存在しない。しかし、それを以って、哲学的認識論など無意味だということにはならない。哲学的認識論は全ての哲学的問題がそうであるように、数学や物理学などのように一貫した理論体系をなすことはなく、異論のない答えや説明を与えることもない。それでも哲学的認識論は極めて重要な地位を占める。人の意見は分かれ、これまで信じられていたことが信じられなくなり、支持されていた意見が支持されなくなる。これが人の世の常で変わることはない。だからこそ哲学的認識論も最終的な意見の一致をみることはない。逆に言えば、哲学的認識論は人の世を映す鏡なのだとも言える。それゆえ意見対立が激化し現実の闘争となる前に、哲学的認識論の中でそれを哲学的議論に置き換え闘争を回避することもできる。現実にはそう上手くはいかないことが多いだろうが、哲学的認識論に有益な社会的役割を与えることができることは確かだ。

 なおヒュームやカントの巨大な影響力もあり、現代哲学において認識論が存在論に優先する傾向が強い。しかし、前に論じたとおり、本来、哲学固有の領域は存在論(=倫理)にある。認識論から存在論を導くのではなく、寧ろ存在論から認識論を構築することが望まれる(注)。実際、上で論じた哲学的認識論の幾つかの立場も、その背景には特定の存在論(存在了解と言うべきもの)が潜んでいる。存在論なくして認識論はない。この辺りの議論は別の機会に譲るが、哲学的認識論を上で述べたような真に社会的意義があるものとするためには、この視点を忘れてはいけないこと、それがしばしば忘却されていることを記しておく。



(注)このとき初めて「脱構築は正義だ」というデリダの言葉が正当化されうる。認識論における脱構築は思考の放棄に繋がる。それは何でもありの世界だ。しかし存在論における脱構築は可能な世界の間の移行や創造活動であり、存在論における脱構築を通じて認識論を構築する試みは寛容の精神の下での普遍性(=正義)への要求へと昇華する。

(H20/7/27記)


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