☆ 存在論とは何か ☆

井出 薫

 「他の学は特殊な存在を扱うが、第一の学(現代でいう「哲学」)は存在そのものを扱う」とアリストテレスはその著「形而上学」で語り、哲学の根本問題は存在そのものを究明することであると論じている。ハイデガーはアリストテレスの考えを継承して、「存在こそが哲学の第一の問題である」と宣言したうえで、古代ギリシャ以来の西洋哲学が専ら「存在者」を論じるばかりで、「存在」そのものを問うことを忘却してきたと批判する。

 アリストテレスも、ハイデガーも、存在そのものを解明したとは言えないが、哲学固有の問題領域(=「存在論」)を明確にした業績を否定することはできない。現代人の多くは物理学こそ全ての学問の基礎だと考えているが、物理学は「宇宙と呼ばれる時空とそこに存在すると考えられている素粒子・場の集合体」という世界観の下で「数学」を駆使して自然現象を解明する特殊な学問に過ぎず、全ての学の基礎ではなく、全世界を解明するものでもない。物理学の原理や法則が如何に普遍的・客観的なものであるとしても、それが特殊な存在領域を扱うものであることに変わりはない。人生の問題や人間社会のあるべき姿など私たちにとって最も身近で最も重要な問題に物理学は答えを与えない。

 哲学は、特殊な存在を超えたすべての存在を扱う。だがそもそも「特殊な存在」と「存在そのもの」との関係はどのようになっているのだろうか。「存在そのもの」など存在せず、それは単なる「存在」という言葉に過ぎないというのが一つの立場で、唯物論者や論理実証主義者などはこの立場を取る。この立場では、哲学は個別の科学に解消されるか、言語や論理分析に自らの活動を制限することになる。哲学の持つ究極の学という高貴?な印象は廃棄され、哲学は諸学の上にあると言うよりも寧ろ下に位置する。哲学無用論なども当然生まれてくる。一方で「存在そのもの」は単なる「(存在という)言葉」に還元されることはなく、固有の探究領域をなすとする立場がある。ハイデガーは「存在」と「存在者」を厳密に分け、「存在そのもの」を単に「存在という言葉」に還元する立場は、「存在」と「存在者」を混同することから生じると批判し、哲学とは「存在者」をまさしく「存在者」とするところの「存在」を論じるのだと主張する。存在を存在者と同一視すれば、確かに「個別の存在者の集合」以上の意味を「存在」は持つことはできない。そうなれば、必然的に、存在を扱うことは特殊存在を扱うことに等しくなる。だが、ハイデガーは「存在」とは「存在者」のことではないと指摘する。

 ハイデガーの議論は魅力的だが、説得力があるとは言えない。ハイデガーは「存在」に対する暗黙の了解=「先行的な存在了解」があるからこそ、私たちは日々「存在者」と出会うことが可能となる、だから、「存在者とは何か」あるいは「存在者の全体はどのような性格を持っているのか」と問う前に「存在」そのものを問う必要があると論じる。しかし、先行する存在了解がなければ存在者と出会うことができないとは言えない。現実問題として私たちは「存在とは何か」などと特別考えたりしていない。私たちには日頃は意識していない共同体で継承されてきた暗黙の知識や行動様式、過去の膨大な体験などが存在して、それが私たちの日々の行動や考えを決めている。その意味では、存在者と出会う前提として先行的な存在了解があるのだと考えることはできる。だが、このような意味での存在了解とは(通常は意識されない)社会の諸関係や脳の諸活動など特殊存在を扱う個別の学問に還元されるものに過ぎず、「存在」に固有の意味を与えることはできない。こうして、個別の学問に先立つ高貴な学としての「哲学=存在論」を擁護しようとしたハイデガーの試みは挫折する。

 それでも「存在論」には特別な意味がある。それが「存在」を論じるのか、「存在者」を論じるのか、そんなことは実はどうでもよい。寧ろ哲学以外の諸学が特殊な存在領域を構成することで初めて学として成立していることを指摘し、その構成の抽象的な枠組みとその具体的な(学者集団やそれを支援する諸組織・諸制度の)社会的諸活動を批判的に吟味することが「哲学=存在論」に固有の意味を与える。それは理論的というよりも、本質的に「倫理」に属するものになる。人生や社会のあるべき姿を論じるときに哲学が答えを与えてくれるわけではない。だが哲学的な思考なくして答えが与えられることもない。哲学とは基本的に倫理であると言える所以がここにある。



(補足1)
 学問だけではなく、芸術もそれぞれの立場固有の特殊存在を構築してそこで活動を行う。写実主義とシュールリアリズムとでは物理学的には同じ物を見ていても定立されている存在の様式と範囲が異なる。さらに、そのことは芸術だけではなく、政治、経済、法、そして人々の日常生活においても変わることはない。人とは常に各場面で特殊存在を定立して生きている。ただ、私たちに必要なことは、ハイデガーのようにそこから一挙に抽象的で空疎な「存在」へと移行することではなく、特殊な存在の中に留まりそれを具に観察することなのだ。その観察は物理学のように様々な現象を説明・予測する基礎原理の発見を目的とするものではない。特殊な存在の様相、それが生まれ・消えていく有様とその背景を丹念に描き出していくことが目的となる。ただ、そこで様々なドグマやイデオロギーに囚われて独善的な見方を存在に押しつけないように注意が必要となる。そのためには独善を避ける適切な方法が必要だが、それについては別の機会に議論したい。

(補足2)
 最後の段落で「倫理に属する」と論じたが、これが分かりにくいかもしれない。ここで倫理とは自らの責任における決断という意味を持つ。存在を構成するという営みにおいて、私たちは自らの責任で特殊存在を選択することになる。何故なら特殊存在が定立されればその基盤の上で倫理的決断と(相対的ではあるが)切り離した理論を展開することができるが、特殊存在の構成という場面においては根拠となる基盤が欠けており、盲目的な選択という性格を避けることができないからだ。そしてそれにも拘わらず私たちはその選択に責任を負う必要がある。だからこそ、それは倫理に属する事柄となる。

(H20/7/19記)
(H20/7/20補足追記)


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