☆ 数学と物理学(試論) ☆

井出 薫

 数学と物理学は密接な関係にあり、相互に刺激しあって進歩してきた。だがその内的連関を明らかにするのは容易ではない。ここでは電磁気学を例にして数学と物理学の関係を少し調べてみる。

 古典電磁気学では基本的な物理量は電場Eと磁場Hであり、EとHを関連付けるマックスウェルの方程式と(電荷eの)荷電粒子の運動方程式で電磁現象がすべて説明される。ところでマックスウェルの方程式や荷電粒子の運動方程式を解くために、EとHを電磁ポテンシャルA(ローレンツ変換に対して共変な4次元ベクトルつまり相対性原理を満たすベクトル)で表現することが役に立つ。しかし、これら電磁ポテンシャルの解は一意的に決まらず直接観測されることもない。それゆえ古典電磁気学では電磁ポテンシャルは実在する物理量である電場や磁場を計算するための便宜的な補助手段とみなされていた。

 ところが、量子論が登場して電磁場も基本的に古典的な存在ではなく量子化される必要があることが認識された結果、電磁場を特徴づけるのは電場Eと磁場Hではなく、寧ろ電磁ポテンシャルAであることが明らかになった。電磁場を媒介する素粒子である光子は電磁ポテンシャルにより最も適切に表現され、光のスピンが1であることも電磁ポテンシャルが4次元ベクトルであることから導出される。しかも電場Eと磁場Hがゼロで電磁ポテンシャルAだけがゼロでない値を持つ場所で電磁効果(アハラノフ・ボーム効果)が実験で証明され、電磁ポテンシャルが単なる便宜的な数学的存在ではなく物理世界の実在的な構成要素であることが明らかになっている。

 こうして古典物理学では方程式を解くための便宜的な存在と考えられていた電磁ポテンシャルAが、量子論では電磁場の最も基本的な物理学的実在とされ電場Eと磁場Hが寧ろAから二次的に構成される量と考えられている。

 量子論が古典物理学を超えたより普遍的な物理理論であることはもはや疑う余地がない。アハラノフ・ボーム効果を始めとして量子論は(日常的な感覚からすると)不可解な現象を多数予言するが、全てそれが実際に理論どおりに存在することが証明されている。(アハラノフ・ボーム効果の証明には日本の研究者外村博士が多大な貢献をしている。)つまり量子論こそ最も普遍的な物理理論であり、そのことは電磁場を表現する基本的な量はEやHではなく電磁ポテンシャルAと電荷eであることを示している。

 とは言え、電流計・電圧計・磁石など私たちの周囲にある測定器や道具が示すとおり、私たちが直接観測できるのはAではなくEとHであることに変わりはない。最初に述べたとおりAは解が一意的に決まらず、Aを決定するにはゲージを固定する必要がある。(正確に言えば、ゲージを固定しても解は一意的にはならない。)それゆえ、電磁ポテンシャルには便宜的な性格が付き纏う。
(注)但し、このゲージの任意性こそが量子論的な電磁場を特徴づけるものであり、ゲージの任意性を持つゲージ場が宇宙に存在する全ての相互作用(重力相互作用、電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用の4つの相互作用)を記述できることが分かっている。

 では、真の実在は電磁ポテンシャルなのだろうか、それとも電場と磁場なのだろうか。量子論こそ自然の根本原理と考える限り答えは前者になるが、私たちの観測や実験が捉えるものは後者になる。

 ここに数学の世界と物理学の世界の異質性と同一性が表現されていると考えることができる。直接観測されるのは電場と磁場だと述べたが、正確に言えば私たちの感覚(視覚など)に直接観測されるのは、電流計のアナログな針の目盛やデジタルな表示であり、電場や磁場そのものではない。その意味では電場や磁場も便宜的数学的存在に過ぎない。そして数学の世界では現実との整合は正当性の根拠とはならず、論理的な一貫性が最終的な判断基準となる。それゆえ数学的な観点からすれば、電場と磁場、電磁ポテンシャルのいずれを基本的な量とみなすかは相対的な問題にすぎない。古典電磁気学の数学体系では電場と磁場を出発点とすることが便利だが、量子論では電磁ポテンシャルを出発点とする方が便利で見通しがよくなる。だが古典論でも量子論でも、どちらを基礎としても数学的整合性が損なわれることはない。つまり、どちらを基礎にしてもよい。ただどちらを選ぶと計算が容易で明快になるかだけが問題となる。しかし物理学ではどちらを基礎として捉えるかにより、実験や観測結果に差が生じてくる。その典型的な例がアハラノフ・ボーム効果なのだ。

 数学も物理学も、自然現象を観察し応用することから生み出された学問であることに変わりはない。ただ注意するべきことは、他の論考で述べたとおり、数学も、物理学も、自然そのものを直接的に把握するのではなく、(前に導入した表現で)「モデル・道具」として間接的に対象を把握する。それは私たちが直接見るのは測定機器のアナログな針の目盛やデジタルな数値であり、電磁ポテンシャルでもなければ、電場・磁場でもないことからも察しが付くだろう。

 その点では、数学と物理学は同じ存在論的な身分を持ち、両者が密接に、ときには一体となって進歩してきたことは当然の結果と言うべきだろう。数学がなぜこれほどまでに物理学で役立つのか、という問いを多くの物理学者や数学者が発したが、それは両者とも自然現象という土台の上で手を携えて花開いた学(学的モデル・道具)であることを考えれば当然のことで、そもそもこうした問いは数学と物理学が高度に発展・分化することで両者の関連が見失われた結果生じた疑似問題でしかない。

 しかし、その一方で、数学と物理学を全く同一の性格を有する学、同一の存在論的位置を占める学と考えると間違えることになる。物理学はあくまでも現実の自然現象を相手にした実験や観測でその正当性が認められる。その一方で数学は論理的な整合性が常に決め手になる。物理学では幾ら数学的に完璧でも実験や観測と合致しない結果を予測する理論は放棄される。逆に実験や観測結果をすべて正確に再現しても数学的に論理矛盾を含むものは数学的に正しい理論と認められることはない。

 こういう風に考えればよいだろう。物理学は自然現象を対象とする学的モデル・道具であり、数学は直接自然現象を対象とするのではなく、自然現象を対象とする物理学など様々な自然科学の学的モデル・道具を対象とする学的モデル・道具なのだと。このように整理することで数学と物理学の密接な関連、同一性と異質性がともに了解される。また、上で全ての実験や観測結果を説明できても数学的に矛盾した体系は数学的に正しいと認められることはないと述べたが、実はこのような理論は物理学的な理論としても正当とは認められない。物理学の理論は数学的に整合していること、つまり数学の理論としても正当であることが要求される。−それは全ての自然科学に当てはまる。−それは、数学が直接的に自然現象を対象とするのではなく、自然現象を対象とする物理学のような自然科学という学的モデル・道具を対象としているからだと考えれば理解されよう。数学は物理学(並びに他の自然科学)を研究対象とした体系的な学的モデル・道具を作り出し、物理学など自然科学を統制するという地位を占める。その結果、正しい自然科学の学的モデル・道具は数学の原理に従うことが要請される。それゆえ、数学的に矛盾した理論は物理学の理論として認められることはない。



(補足)  経済学など社会科学と数学との関係をどのように考えるのかという問題が残る。社会科学での数学の応用はここで論じたような物理学と数学のような自然という共通の土台を有する直接的な関係ではなく、間接的なもの、数学と経済学がそれぞれ独立して発展して収斂した結果と考えるべきだろう。ただし数学の源流には天文学や測量、物理学などと並んで商業での必要性という事実が存在している。それゆえ社会科学と数学の関係についてはより深い分析が必要となる。また、それは自然と社会との関係を論じることにも繋がっていく。ここではその点を研究課題として指摘するに留める。



(H20/7/1記)


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