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井出 薫
ウィトゲンシュタインは、犬はドアの向こうに主人がいると信じることはできるが、明後日も主人が帰ってくると期待することはできない、と書いている。 ウィトゲンシュタインは犬には未来のことは分からないと言っているのではない。「期待する」という言葉は心の状態を示すものではなく、(人間の)言葉を語る者が織りなす言語ゲームの中で初めて意味を持つもので、言葉を話すことができない犬には「期待する」という言葉を適用することは無意味だと言っている。 だが私にはこのウィトゲンシュタインの議論は間違っていると思われる。確かに犬は人に自分の期待を言葉で伝えることはできない。飼い主が「(愛犬の)ポチは明朝の散歩を楽しみにしている」と語るとき、それはポチが期待しているのではなく、飼い主が自分の考えを表明しているに過ぎないと論じることはできる。そして、これに論理的に反論することはできない。勿論、犬自身が反論することはない。 しかし、愛犬家ならば、ポチが毎日の散歩を楽しみに待っていること、散歩をさぼるとがっかりして、散歩に連れていくことを強く希望することを文句なく認めるだろう。 言葉は、まさにそういう現実、人間だけではなく、動物や様々な物を包含する世界で流通している。そして、その中で言葉の適切な使用方法が決まる。愛犬家は出張から帰ってくるとき「ポチは私の帰りを楽しみに待っている」とごく普通に語り、周囲もそれが真実であることを容易に理解する。この事実こそが言葉の現実を語るものであり、人間だけではなく動物にも「期待」や「希望」という言葉を適用できることを示している。ウィトゲンシュタインは、人間だけが精神を持つと語ったデカルト以来の人間中心主義に囚われ、議論の方向を誤ったと思われる。 了
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