☆ 「意味」の意味 ☆

井出 薫

 哲学では言葉(単語だけではなく文章、さらには記号を含む)の「意味」あるいは言葉で表現される対象の「本質」が常に問題とされてきた。一般的に「本質」が「意味」を定めると考えられており「意味」は哲学の中心課題だと言えよう。

 だが「意味」を問うことは本当に重要なことだろうか。日常で「意味」が問題となる場面はおおよそ3つある。

 見知らぬ言葉に出会ったとき、人はしばしば「この言葉の意味は何か」と尋ねる。だが、これは別に「意味」=「本質」を問い質しているのではなく、「その言葉をどう使えばよいのか」という疑問、「会話ができない」という困惑、「どうもその言葉はピンとこない」という違和感などを表現しているに過ぎない。野球を全く観たことも遣ったこともない人から「野球の意味は何か」と尋ねられても、言葉だけでは説明しきれない。この問いに答えるには野球をテレビか球場で一緒に観戦するのが一番手っ取り早い。

 法的係争など関係者間で言葉や規則の理解に齟齬があると感じられたとき、「意味」が問われることがある。恋人の心が冷めたとき以前交わした「愛している」という言葉の意味を巡って諍いが起きるかもしれない。しかし、このときも特別に「意味」が問われているのではない。意見に相違があり検討が必要であることが示されているに過ぎない。そこでは意見の統一を図る、あるいは意見の相違を確認するために議論(や喧嘩)がなされる。そのやりとりの中で「その言葉の意味は何だ。言葉の定義をはっきりしろ。」というような会話が交わされることがある。だがこの場合も、合意を促す、あるいは相手を威嚇することが目的であり、殊更「意味」(=本質)を問うているのではない。

 話し言葉は物理的には空気振動に過ぎず、文字はインク分子の集合やディスプレイの発光パターンに過ぎない。だが私たちはそういう物理的な属性を認知しているわけではない。インクが分子の集合であり、そこから散乱された電磁波が視覚細胞で捕捉されることで文字を認知できるという事実が発見される遥か昔から人々は文字を使って生活をしてきた。しかも、様々な話し言葉でも、書き言葉(文字)で同じ対象を指示することができる。友人Aを示すために、電子メールに「A」と記すこともできるし、電話で「A」の名を伝えることもできる。筆跡は個人特有だが、誰が書いても同一人物Aを指示することができる。こういう多様な物理的媒体で同じ対象を指示することができることから、人は言葉を通じて物理的な媒体を超えた何かを認識しているに違いない、そしてその何かが「意味」なのだと考えたくなる。西洋哲学の源流に位置するプラトンのイデア、アリストテレスのエイドス(形相)に同じ発想を見ることができる。しかし、ここでも物理的媒体を超えた「意味」を想定する必要はない。脳を司令塔とする人間の身体が様々な物理的信号に同じように反応すると考えれば、「意味」を想定しなくても全ては説明が付く。脳は依然として未知の領域に属するが、その働きや特徴はかなり解明されてきており、このような説明と矛盾しない。

 こうして「意味」は便宜的な表現でしかなく、物理世界を超えた「意味」の世界など存在しない、少なくとも存在すると想定する必要はないということになる。だとすると哲学者はこれまで的外れな議論をしてきたことになるのだろうか。

 「意味」という言葉は、自分にとって、あるいは社会にとって重要な事件が生じ、それについて真摯に考えるときにしばしば使用される。「私の人生に何か意味があるのか!」などという表現にそれが象徴される。悩み、物事を深く考えることは人間が有する極めて重要な性質であり、それなしには善い振る舞いや善い社会を生み出すことはできない。それゆえ「意味」について考えることは無意味ではない。ただ「意味」という言葉の背景に現実世界を超えた世界があると考えると袋小路に陥る。そこに注意が必要となる。



(補足)日本語の「意味」という言葉と、「意味」と訳される西洋哲学の用語とではニュアンスに差がある。本稿はあくまでも日本語の「意味」を題材にした議論であることに注意してほしい。但し、本稿の議論は西洋哲学を吟味するときにも役立つと考える。また、本稿はけっして唯物論や無神論を支持するものではない。ただ超越者への道は「言葉」や「意味」の論理的分析から得ることはできない。

(H20/5/16記)


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