☆ 知識とは何か〜知識論再考 ☆

井出 薫

 「知識」とは何だろう。私があることに関して「知識」を持っていると言えるにはどんな条件が必要だろうか。これはかつての英米哲学で盛んに議論された課題だった。

 「知識」は単なる「信念」あるいは「思い込み」とは違う。私が日本の首相を安倍晋三だと信じることはありえる。しかし、これは知識とは呼ばない。「知識」と呼ぶためには、信念が真理である必要がある。

では真理である信念は知識と呼んで良いだろうか。これだけでは足りない。たとえば私が占いで日本の首相は福田康夫だと信じるようになったとする。この場合私の信念は確かに真理だが知識とは言い難い。クイズの答えが分からず出鱈目を言ったところ偶然当たったに等しい。知識と呼ぶには、合理的な根拠に基づく信念である必要がある。つまり、なぜそう信じるのかと問われたときに合理的な根拠を示すことができないようでは知識とは言えない。

 信念、真理、合理的な根拠、この3つが揃えば、それは知識と言ってよいだろうか。これは難しい問題だ。牧場の横を車で通り過ぎたときに牛を見たとする。ところがこの牛は本物そっくりの牛の模型だった、但し模型以外にも牧場には本物の牛がいるとしよう。私はこの牧場に牛がいるという信念を持つ。この信念は真理であり、自分の目で確かめたという合理的な根拠がある。だが、この牧場には牛はおらず、ただ本物そっくりの牛の模型だけが置いてあるとしたら、私の信念は偽であり知識ではなくなる。

 それゆえ、3つの条件を満たすだけでは知識とは言えない。錯覚することがあるから自分の目で見たということは合理的な根拠にはならないという意見があるかもしれない。だが、日常生活で錯覚をすることは少なく、人は自分の目と他人の目を信用する。目撃証言は裁判所でも極めて信憑性が高いものとして扱われる。そもそも合理的な根拠とは何かというのはすこぶる難問で誰も明確な答えを与えていない。だから常識的に信頼できる行為は合理的な根拠になると考えるしかない。さもないと議論は不可能となる。

 では、信念、真理、合理的な根拠の他に、どのような条件を追加すればよいだろうか。ある男が数学の定理を暗記しているとしよう。しかし彼は定理の証明もできなければ、定理を応用することもできない。そういう場合、彼が数学の定理を知っているとは言えない。「知識」という概念は、単に事実を記憶しているだけではなく、合理的に使用できることを含意している。定理を証明してその正しさを示すことができる、定理から別の定理を導くことができる、定理を使って問題を解くことができる、これら全てのことができる必要はないが、どれかができないと知識とは言えない。

 それゆえ、知識の条件として、信念、真理、合理的根拠、合理的な使用、この4つを挙げることができる。牛そっくりの模型を牛と勘違いした私が牛を見たいという者を牧場に連れて行き本物の牛を見せることができれば(つまり本物そっくりの模型だけではなく本物の牛もいるのであれば)、私は牧場に牛がいるという知識を持っていると言ってよい。私の信念は合理的に使用できるからだ。さらにそのことを通じて本物の牛を確認し合理的な根拠を得たと言うこともできる。

 しかし、ここまで進んでも議論は完全ではない。信念、真理、合理的根拠、合理的使用、いずれも曖昧なところがある。曖昧なものをいくら足し合わせても確実なものにはならないという意見があろう。しかし私たちの知識には絶対確実なものなど存在しない。デカルトやフッサールが絶対確実と信じたことですら実際は曖昧なものでしかなかった。およそ私たちの生活に役立つ知識は、曖昧で誤謬の可能性が必ずある。だから知識の条件に曖昧さがあるからと言って、それが誤りだとは言えない。だが問題は4つの条件が「知識」の十分条件を形成するかどうかということだ。この点はまだ解決できていない。



(H20/4/19記)


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