☆ 私と世界 ☆

井出 薫

 友人がこんな話をする。「自分が世界の中にたった一人で居る。自分のことはよく分かる。そこに友人のOとHが遣ってくる。二人のことを私は分からない。それを考えると恐ろしくなる。」

 ウィトゲンシュタイン学徒(を自称する)私は反論する。「そういう発想自体が、言葉を知っていること、様々な知識を持っていること、現代という時代に生きていることから生じている。言葉を知らなければ、知識がなければ、現代という時代に生きていなければ、そういう考えが生じることはない。言葉も知識も、人々との社会的な交わりの中で獲得してきたものだ。だから、そのような考察は、暗黙のうちに現実の言語使用と共同体での他者との交流を前提とするものであり、私と世界の本質を探るものにはなりえない。なぜなら、その前提そのものを反省して解明することができないからだ。」しかし友人は納得しない。盛んに自分の考えを繰り返し、反論してくる。私は正直言ってその哲学的素朴さに辟易する。

 だが良く考えると、友人の言うことが現実的で極めて重大な問題提起であることに気が付く。私がたとえば部屋で一人読書をしているとしよう。そこには誰もいない。ドアを開ければ外の世界が存在することを私は知っている。しかしドアを開けると同じ部屋に戻り、またドアを開けてもまた同じ部屋に戻る、こういうことは論理的にありえる。事実宇宙全体は閉じた空間でそういう構造になっている可能性がある。SFやホラーではこういう情景は頻繁に登場する。だとすると世界には私一人だけということになる。そして世界とはそもそも私の想像に過ぎず、そこに存在する者はすべて私に属するという考えが成立しうる。

 今度は、そこに二人の友がやってくるとしよう。二人の友も私の想像に過ぎないと考えることができる。だが私の感覚はそれが間違いであることを強く主張する。二人は私とは別の人間であることは疑いようがないと感じる。

 その理由は主として二つある。まず友は私の思い通りにならない。私が懸命に説得しても私の哲学を理解せず、あの手この手で反論してくる。友はときには私の予想もしない行動を取り私を困惑させる。逆に、そのようなことは全く意図してしなかったのに、私の言動が友を困惑させることもある。私の身体も私の思う通りにはならない。腹痛や歯痛を我慢することはできるが、それを無くすことはできない。だから、私は、私と私の身体との間にすら差異が存在することを認めざるを得ない。況や、友はその痛みすら直接的には知ることができない。口をもごもごさせながら顔を歪めているのを見て歯が痛いのだろうと想像することはできるが、本当に歯が痛いのかどうかは分からない。本人が「歯が痛い」と言っても冗談を言っている可能性もある。こうして二人の友は私とは異なる独立した人間だと考えるようになる。

 第2の理由は私と二人の類似性だ。私は自分の手や脚を見る。あるいは全身を鏡に映し出す。その姿は友とよく似ている。机や鏡は私に全く似ていないが、二人は私によく似ている。しかも同じ言葉を話している。私はそこで二人の間に私自身の身体と振る舞いを投影する。すると部屋には、私を含めて、それぞれ独立した三人の人間が存在することになる。こうして、私は、他の二人と同じように、その他大勢の人間の一人に過ぎないと考えるようになる。

 このように、操作不可能性と類似性、この二つの事実が、二人の友は私とは別の人間だという感覚を呼び覚ます。これはけっして厳密な論証ではなく、単に直観的な推理に過ぎない。それにも拘わらず、二人の友が私とは独立した人間であるという考えは、数学の厳密な論証以上に説得力があり、私にその承認を迫ってくる。

 世界は私の想像の産物ではなく、世界は私の世界でもない。私は世界の中にあり、他に多数の人間や生命体、無機物がそれぞれ独立して存在している。これは否定しようのない事実と考えるしかない。また、厳密な論証は不可能だが、この事実を認めることであらゆる学が意味をなすと考えることもできる。世界が私の想像の産物でしかないのであれば、学問的な探究が意味をなすとは思えない。

 しかし、だとすると私はどうやって友(や他の人間)のことを知るのか。友が独立した存在であることは操作不可能性により示された。操作不可能である以上友を認識することには限界がある。操作できる範囲でしか私は対象を認識することができないからだ。−ヘーゲルの概念弁証法は空疎な観念の世界に留まり、現実の人間例えば二人の友には届かない。正しい認識には現実的な操作可能性が不可欠だ。−それゆえ友は理解不能な他者として留まる。そして友が理解不能ならば世界も理解不能となる。ここで友人が私に説いていたことがリアリティを持つ。私と世界は実に不可解で気味悪い状況に置かれている。

 19世紀後半から現代に続く哲学はこの難題を解決するために、主体としての「私」と、対象としての「世界」(=客体)という二元論図式をいったん解体して、「生」、「純粋意識」、「言語」などという一元論的な場を設定して、そこから世界の認識可能性と私並びに他者の理解可能性を導出しようと試みてきた。だがそれは上手くいかない。なぜなら一元論的な場を設定するということは、世界=私の世界、全ては私の想像に過ぎないという立場から世界を考察することと本質的に同じことになるからだ。事実、ニーチェ(力への意志と永遠回帰)、フッサール(意識としての生)、ハイデガー(存在)、分析哲学者や構造主義者たち(言語体系や言語使用、構造など)、誰一人として一元論的な場から私と他者と世界を理解することに成功した者はいない。そして、その結末が絶え間ない脱構築・脱領域化のポストモダニズムだった。ポストモダニズムの旗手であった今は亡きデリダやドゥルーズはこのような試みがけっして成功しないことを示唆している。

 では、私は、私と世界の不気味さから抜け出せないのだろうか。勿論そもそもそんな不気味さを感じたことなどないという健康な人もいるだろう。確かにほとんどの人は現実生活の中で不気味さを解消している。だが世界中に溢れる調停困難な不和や争い、それがもたらす死という現実に接するとき誰もがこの不気味さに気付かないわけにはいかない。「問題が存在しないと悟ることで問題は解消される」という「論考」におけるウィトゲンシュタイン流の解決策では問題は解決されない。

 だとすれば、私たちは孤独な単独者「実存」として生きるしかないのか。いや、解決への道がないわけではない。友が私とは独立した存在であることを知る第二の手掛かりは類似性だった。私と友あるいは他者はよく似ている。生命体は人間とよく似ている。おそらく、この事実に不気味さから抜け出す鍵が理論的にも実践的にも隠されている。おそらく、操作不可能だが類似している存在、その存在への(類似しているが故に可能となる)責任と共感、これが社会的にも個人的にも不気味さを克服する手掛かりだと考えられる。そして、それを理論的並びに実践的に具現化することが私たちの課題となる。



(H20/4/1記)


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