☆ 言語行為論 ☆

井出 薫

 20世紀半ば、言語とは世界を記述するものではなく、社会的な行為であるとイギリスの哲学者オースティンは指摘した。これまでの哲学は記述主義的誤謬に陥っていたというのがオースティンの診断だ。

 「机の上に一冊の本がある」という言明は、実際に、「机の上に一冊の本がある」という事態を表現していると私たちは考える。だが一体いかなるときに、私たちは「机の上に一冊の本がある」などと語る(あるいは書く)のだろうか。一人部屋に籠って、机の上にある本を見て、「机の上に一冊の本がある」と虚空に向かって叫んだら変に思われるだろう。普通は、部屋にいる誰かに本の在り処を示したり、誰かに読んでもらうことを目的に手紙や小説に書いたりする。言語は世界を記述するというよりも何らかの目的を持った行為に使用される。

 このことは、「私は明日必ず貴方の家に伺います」という言明を考えればより一層明確になる。これは世界に関する何かを記述しているのではない。言語は何か対象を示すものだという立場に固執するならば、私の心的状態を記述していると言うしかないが、自らの心を覗きこんでも、この言明に先立つ心的状態は見当たらない。そもそも覗きこむべき対象としての心などは存在しない。覗こうとすること自身が心の過程あるいは状態であり、覗きこもうとする試みから独立した対象としての心の状態、過程、傾向などを見つけることはできない。それゆえ、「私は明日必ず貴方の家に伺います」という言明は何かを記述するものではなく、「約束」という社会的行為を遂行するための道具と考えるしかない。

 こうして、言語は世界を記述する道具ではなく社会的行為であることが明らかになる。言語とは言語行為と呼ぶべき存在なのだ。さらに、オースティンと後継者たちは言語行為の分析を進め、3つの次元に分類する。
●発語行為:意味ある言葉を発すること。
●発話内行為:発語行為を通じて遂行される社会的な行為。上の例で言えば「約束する」こと。
●発話媒介行為:発語行為と発話内行為を通じて間接的に生じる行為や効果のこと。たとえば、上の例で、約束する側が組織の上司や国家権力の場合、「明日貴方の家に行く」と約束することは、聞き手に家に居るよう暗黙のうちに強制する効果がある。場合によっては相手に不安を与えるという効果もあるだろう。つまり言葉そのものには直接的には表現されていないが、言語行為がなされる文脈によって様々な付随的な行為とその効果を生むことになる。それを発話媒介行為と呼ぶ。

 オースティンの分析は、話し言葉には的中するが、書き言葉には当てはまらない、オースティンの思想は話し言葉優先主義という西洋形而上学のドグマに囚われているとポストモダニズムの旗手デリダは批判する。しかし、オースティンが言語に関する独創的な思想を展開したことは間違いなく、デリダ自身がオースティンに多くを負っている。

 ウィトゲンシュタインを知る者ならば、オースティンの思想にはウィトゲンシュタインの影響があると指摘するだろう。確かにウィトゲンシュタインの言語ゲームはオースティンの言語行為に似通っている。オースティンはウィトゲンシュタインの議論のいい加減さを厳しく批判したが、両者が同じような観点から言語を見ていたことは間違いない。ただウィトゲンシュタインが専ら哲学批判を目的として言語ゲームという視点を利用したのに対して、オースティンはあくまで新しい言語哲学体系(いずれは言語の科学になるとオースティンは期待した)を模索することに主眼が置かれている。ウィトゲンシュタインにとって言語ゲームの一般理論などは興味の対象外だが、オースティンが求めるのは言語に関する一般的な理論だ。ここに二人の関心の違いが如実に現れており、それが両者の思想を全く異質なものとしている。そして、私たちが言語の合理的な分析を遂行したいのであればウィトゲンシュタインよりもオースティンを見習うべきだろう。なぜなら合理的な議論には一般的な理論を模索することが不可欠だからだ。

 いずれにしろ、言語が世界を記述するものではなく、社会的な行為であることに間違いはない。オースティンは研究を完成させることなくこの世を去ったが、その意義は決して否定されない。私たちはオースティンが到達した地点から出発する必要がある。



(H20/3/10記)


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