☆ 確実性の問題 ☆

井出 薫

 イギリスの哲学者ムーアは相対主義を反駁して確実な知識が存在することを示すために、右手を目に前にかざし、「これが私の右手であることは間違いのない真実だ」と述べた。

 ウィトゲンシュタインは基本的にムーアの議論を承認する。ただし「間違いのない真実だ」という表現はミスリーディングだと指摘する。これは確実な真理と言うよりも、疑うことが無意味な言明と理解するべきだとウィトゲンシュタインは考える。もし私の目の前にある右手が私の右手でないとしたら、あらゆることが不確かになり何も語ることはできなくなる。だからこれは疑うことが無意味な言明なのだ。

 「確実な真理」と「疑うことが無意味」、ふたつは同じことを言っているようにも思えるがニュアンスは微妙に違う。「疑うことが無意味」という主張には絶対的な真理とは言えないという含みがある。たとえば薬の影響で頭が混乱し人の手を自分の手だと錯覚することはありえる。ただそのとき人はまともな議論はできない。ウィトゲンシュタインはそういうことを指摘している。

 デカルトは「疑っている私が実在することは疑いようがない。よって私の実在は確実だ」と主張した。これは「確実な真理」だろうか、それとも「疑うことが無意味」な言明に過ぎないのだろうか。ウィトゲンシュタインは答えを与えていない。

 私の存在は「私」という言葉の存在に基づく。言葉とは公共的なもの(コミュニケーションの道具)であり、私的言語は言語ではない。「私」という言葉が存在しない言語体系あるいは言語ゲームは存在しうる。だから「私の存在は確実だ」という主張は、「私」という言葉を持つ言語ゲームが展開される共同体における「疑うことが無意味」な言明に過ぎないと主張する論者がいる。だが、このような論法は間違っている。「私」という言葉がなければ、「私は確実に存在する」と語ることはできない。「私」という言葉が有する様々なニュアンスを表現することもできない。しかし語ることができないからと言って、「私」という言葉で表現される何かが存在しない、あるいは存在が確実ではないということは帰結しない。言葉は人間社会にとって不可欠な道具であるが、その全てではない。言語ゲーム一元論を主張するウィトゲンシュタイン信奉者がいるが間違っている。そもそもウィトゲンシュタインがそのようなことを主張していない。言語ゲームはウィトゲンシュタインにとって方法の一つに過ぎず理論ではない。

 仏教思想には「諸法無我」という考えがある。これを「私」の非在の主張と捉えることもできなくはない。しかし仏陀の教えは、我への固執を戒めることに主眼があり、文字通り「私など存在しない」と主張したのではない。私が在るからこそ苦しい。そういう在り方をする私が確かに存在する。

 言語ゲームを持ちだして、「私の存在」を否定することはできない。「私の存在」は確実な真理と言ってよいだろう。
(注)但し、ここで「真理」という言葉が適切かどうかという問題がある。また「私」の存在を否定する論者は「生身の私」を否定しているのではなく近代西洋思想を支配するとされる「主体としての私」を否定しようとしているのであり、ここで展開した議論だけでその意義を否定するのは公平ではない。この点は別の機会に論じることとしたい。

 ただ「私」という言葉が存在しない言語ゲームは確かにありえる。実際、群れを作る動物はすべて何らかの手段でコミュニケーションをしているが勿論「私」に相当する概念は持ち合わせていない。これらの動物たちは自分自身のことをどのように考えているのだろう。言葉を持つがゆえに、却って人間には想像が難しい。

 言葉は人間にとって決定的な役割を持ち哲学者は常に言葉と格闘し迷走している。哲学者に限らずこれは人間の宿命なのだろう。



(H20/3/5記)


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